子游(しゆう)曰わく、子夏(しか)の門人小子(しょうし)は、酒掃(さいそう)、応対、進退に当たりては則(すなわ)ち可なり。抑々(そもそも)末なり。之を本(もと)づくば、則ち無し。之を如何(いかん)。子夏 之を聞きて曰わく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過てり。君子の道は、孰(たれ)に先に伝えん。孰か後に倦(う)まん。諸(これ)を草木の区にして以て別あるに譬(たと)う。君子の道は、焉(いずく)んぞ誣(し)う可(べ)けん。始め有り卒(おわ)り有るは、其れ唯だ聖人のみか、と。(「子張第十九」12)
(解説)
子游がこう述べた。「子夏の弟子たちは、掃除や客の接待や作法などしつけにおいては、よろしい。しかし、それは端々のことだ。道理の根本については、見るべきものがない。いかがなものであろうか」と。子夏はこの話を聞いて、こう反論した。「ああ、言游は間違っている。道理の根本を誰に先に教えよう。誰がその後に厭くであろうか。譬えてみれば、草木の種類が区別されているようなものだ。道理の根本をないがしろにしてよいものだろうか。始めも終わりも完備しているのは、聖人 完全な人格者だけである」と。(参考:「論語」加地伸行)
弟子の育成、教育論ということであろうか。弟子をとるような職業では、下働きから始まり、その道の所作を身につけ、師匠をまねて習うが一般的なのだろうか。
トヨタの生産方式では、5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)を重要視する。それぞれの意義ややるべきことを教え実践させるが、躾を最も重要視する。躾ることで、それを習慣化させ、ルールや規範を守ることの大切さを教える。それが職場環境の美化、従業員のモラル向上に役立っていく。最初から5Sを身につけた人がいる訳でもなく、そのための教育であり、その途上においては習熟レベルは様々。そうした実践のあとに座学することで、それぞれの意義をより深く理解でき、5Sの習得者となり得る。
子夏の主張に一理あるのではなかろうか。
子游は結果として見える子夏門人の形式主義を批判したのだろうか。
「子游」、姓は言、名は偃、字名が子游。孔子より四十五歳年少の弟子。孔門十哲の一人。学問に秀れ、文学には子游といわれる。礼の形式を重んずる客観派の一人ともされる。子夏学派が礼の形式に流れたのに対して、子游は「礼の精神」を強調する。
孔子の後継に有若を、子夏、子張ともに推すが、曽子に反対されたと「孟子」にあるという。
「子夏」、姓は卜(ぼく)、名は商。孔子より44歳若く、孔子学団の年少グループ中の有力者。文学にすぐれた、つまり最高の文献学者だったという。孔子晩年の弟子。孔門十哲の一人。後に魏の文侯に招かれ、その師となる。
「関連文書」
(参考文献)