これまで大きな問題もなく、問題が生じても上手に対処してきたし、この先もそうできるはず。きちんと会社の利益を第一に考えているし、安全にも配慮できているはず。大事故なんて起きるはずがない。
はず、はず、はず、そうした油断が大きな事故を招くのかもしれない。
これまでの世間を騒がす問題をみては、誠意ある対応が必要であることを知らず知らずのうちに学んで、理解しているつもりだ。しかし、いざ自分がその立場になってみれば、動揺するばかりで準備もままならない。思いとは別に実際の言動はとても誠意があるものとは映らず、世間からバッシングされてしまう。
とある記者会見をみてそんなことを感じた。今の日本の縮図のような気がする。もしかしたら、この先も同じようなことが繰り返されるのかもしれない。
不断に徳の修養に努めていなければ、いざというときに、誠意ある行動などできるはずもない。上辺を取り繕えば、醜く見えてしまうのかもしれない。
論語に学ぶ
賢を見ては、斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては、内に自ら省みるなり。(「里仁第四」17)
「賢者の言動を知ると、自分もそうなりたいと願い、愚者のそれを知ると、自分はそうあってはならないと反省する」と意味する。
賢くない対応を見ては、それを批判し、「賢さ」を知ったようになる。しかし、ほんとうの「賢さ」を学んでいなければ、いざというときに賢い対応などできるはずもない。
「子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(「里仁第四」16)という。
君子 教養人は道理を理解し、小人 知識人は損得を理解すると意味する。
利益を得るための子知恵は容易に手にすることはできるが、「義」を学ぶ機会は少ない。「悪」を見ては、「正義」を知ったようになるが、その正しさの定義があやふやのかもしれない。
孔子が、「参(曾子)よ、私の道はただ一つのもので貫いている」と簡潔に述べると、曾子は丁重に「さようでございます」と答えた。しかし、周りにいた他の弟子たちは真意をつかむことができなかった。
子曰わく、参(しん)。吾が道は一以て之を貫く、と。曾子曰わく、唯(い)、と。子出づ。門人問うて曰わく、何の謂いぞや、と。曾子曰わく、夫子の道は、忠恕のみ、と。(「里仁第四」15)
弟子たちが孔子と会話していた曾子に「今の話はどういう意味でしょうか」と聞いた。すると曾子はこう教えられた、「先生の道は、忠恕一本で貫かれているということだよ」。
「忠恕」、「忠」は自己に対する誠実、まごころ、「恕」は他人に対する思いやり。二つを合わせて人間に対する愛情ということになるという。
安易な批判なら容易で誰にでもできること。しかし、そうした批判を仮に自分が受けるとなると、あまりこころよくない。そうした自分に向けられた仕打ちを他者にはすべきではないのだろう。そんなことをしたら思いやりとはいえない。それよりは自分の学びにつながる「賢さ」に気づくべきなのかもしれない。
「学は及ばざるが如くせよ。猶(なお)之を失わんことを恐れよ」(「泰伯第八」17)という。
「学問をするとき、自分はまだ十分でないという気持ちをいつも持て。しかも、得たものは失わないと心掛けよ」と意味する。
こうした心構えがないと徳を積むことはできないのだろう。
「徳」を知り得てはじめて、いざというときに人として誠意ある対応ができるのかもしれない。
「参考文書」
「茶番」「遅すぎる」 乗客知人らは憤り 知床遊覧船社長会見 | 毎日新聞