曾子(そうし)曰わく、吾(われ)諸(これ)を夫子(ふうし)に聞けり。人 未だ自ら致す者有らず。必ずや親の喪か。(「子張第十九」17)
(解説)
曾子の言葉。「私は孔子からこのことを学んだ。人間は、自然とまごころを尽くすということはなかなかない。もしあるとすれば、きっと親の喪儀のときである」。 (論語 加地伸行)
孔子は曾子に「吾が道は一以て之を貫く」といい。「夫子の道は、忠恕のみ」と曾子は門人たちにその意味を伝える。(「里仁第四」15)
孔子でさえ、常に「忠恕」を心がけていたというのだから、その実践がきわめて難しいのだろう。
「忠」は自己に対する誠実、「恕」は他人に対する思いやり。二つ合わせて人間に対する愛情ということになると桑原が解説する。
「曾子」、姓は曾、名は参。字名は子與。親孝行で有名だという。孔子より46歳年少で門下の年少グループに属したが、孔子の死後やがてその学団の長となって、儒教の正統を伝えた人といわれる。曾子から子思(しし:孔子の孫)へ、さらに性善説の孟子へと伝わったといわれる。
「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳 厚きに帰す」と曾子はいう。
両親の喪において、まごころを尽くすのであれば、その道徳心はすぐれたものになるとの意。
その曾子は「仁 以て己が任と為す」といい、それが後の家康の徳川遺訓となり後の時代に伝わる。
渋沢栄一は、「論語と算盤」で、この遺訓を用いて「士魂商才」の必要性を説く。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」
「商才」とは、才能や頭の回転に速さではなく、道徳にもとづいたものでなければならないと主張する。その事例を徳川家康にもとめ、この遺訓を説明し、家康もまた「論語」を学び、道徳を養っていたいう。家康が、世間とのつき合い方に秀でいたことも論語の教えから来ているといい、それが徳川幕府が200年あまり続く礎になったとみる。
「社会で生き抜いていこうとするならば、まず「論語」を熟読しなさい」、と栄一は強調する。
(参考文献)