品格、その人に感じられる気高さや上品さのことを言います。
大相撲で、6場所連続休場していた横綱白鵬が全勝優勝しました。また、大関から陥落、序二段から這い上がってきた照ノ富士が横綱に昇進するといいます。その横綱なる力士は、その地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求されるといいます。
白鵬の土俵での振舞について賛否が分かれます。執拗な張り手、肘鉄、ガッツポーズに雄叫び、そうした行為は傍若無人な振舞に映ったりするのでしょうか。一方で、窮地に追い込まれた横綱の勝ちへのこだわり。
ある横綱審議委員は、照ノ富士の昇進について、「品格をどのように評価するかというと、第一に相撲道に対する情熱。そして相撲に精進する気迫を高く評価させていただきました」と評価します。その一方で、「白鵬を出して申し訳ないですけど、日本の国技である相撲ですから品格が大事」とコメントしていました。
品格、武士にとってどのような意味をもっていたのでしょうか。
武士の訓育に、第一に必要とされたのはその品性を高めることであったと、新渡戸稲造は「武士道」の中で説きます。
そして、それとわかる思慮、知性、雄弁などは第二義的なものとされたといいます。
武士の教育において、美の価値を認めるということが重要な役割を果たしてきた.....
知能が優秀であることはもちろん重んじられた。だが知性を意味するときに用いられる「知」という漢字は、第一に叡智を意味し、知識は従属的な地位を与えられるにすぎなかった。(出所:「武士道」新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
「頭脳の訓練は、今日では主として数学の勉強によって助けられている」と新渡戸はいいます。一方、武士の訓練は、文学の解釈や道義的な議論をたたかわすことによってなされていたといいます。
「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばれば、則ち殆(まど)う」(「為政第二」15)と説く、孔子の言葉を紹介します。
新渡戸は武士道の教育は「判断と実務処理」の能力開発にあるとし、公務処理にせよ、自制心の訓練のためであるにせよ、実践的な目的をもってその教育が行われていたといいます。
そして、単に博学であるだけで、人の尊敬をかち得ることはなかったともいいます。
論語の教え
論語でも、「博学にして名を成す所無し」との言葉があります。
「今も昔も専門の看板を掲げて、この一筋に生きている、ほかのことについては一切無知であるという顔するのが、純粋に見えて出世の早道であった。雑学はいつも貶(けな)し言葉である」と桑原武夫は解説します。
「達巷(たつこう)の党人曰わく、大なるかな孔子。博学にして名を成す所無し、と。
子 之を聞きて、門弟子(もんていし)に謂いて曰わく、吾 何を執(と)らん。御を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾は御を執らん。(「子罕第九」2)
孔子はたいへんな博学だったが、専門家づらをしたことがない。そこを褒めた知己の言に孔子は気が和んだのであろう、
「それじゃ、私は何を専門にすればいいのかな。御者になろうか、射者になろうか。私は御者がいいな」と、側近の弟子たちにややユーモラスにいったのであると桑原は解説します。
「執」とは、専門にすること。「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」を六藝といって、古代の紳士の知っておかねばならぬ六課目であったそうです。
武士の必須科目
武士の訓育は、孔子が指摘した「六藝」とは異なり、剣術、弓術、柔術、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、そして、歴史によって構成されたといいます。
孔子が「数」、算術を藝のひとつにあげたのに対し、武士道では、必要な知識として認識はされつつも、、金銭の価値を徳にまで引き上げることを考えもしなかったといいます。
武士道が節倹を説くのは、理財のためではなく、節制の訓練のためであったと新渡戸は言います。
新横綱 照ノ富士
横綱審議委員会の矢野委員長が、照ノ富士の横綱昇進について、「けがで序二段まで落ちたが、奇跡と言われる復活を遂げたのは、長い相撲の歴史でも特筆に値する。根性や辛抱、我慢、不屈の精神、節制ということばを思い起こさせるものがある」と称賛し、その理由を述べたといいます。
「特に序二段まで落ちてからは容易ではない。会社で言えば、重役が新入社員になったようなものだ。それを乗り越えて復活したのは、相撲の大好きな人たちが共感したのではないか。さらに精進を重ねて、品格・力量ともにほかの力士の目標になってほしい」と期待を込めていました。 (出所:NHK)
「横綱というのはどういう地位なのか、どういう生き方をするべきなのかということを親方とおかみさんと相談して、うまく形にできればいいかなと思う」と照ノ富士が話していたとNHKが報じています。
「私を生んだのは父母である。私を人たらしめるのは教師である」
教える者が、知性ではなく品性を、頭脳ではなくその心性を働きかける素材として用いるとき、教師の職務はある程度まで聖職的な色彩を帯びる。(出所:「武士道」新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
彼らは逆境に屈することのない、高貴な精神の威厳ある権化であり、彼らは学問が目指すところの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた手本であった。そして、その自制心は武士にあまねく必要とされるものであったと新渡戸はいいます。
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やんちゃな照ノ富士がけがという逆境を乗り越え、成長し、ついに最高位に昇り詰めていく。その姿に新渡戸が説く、武士道のカタチを見るような気がします。
強い自制心、それが品格を磨くのでしょうか。
ここ最近、品位に欠く行為があちらこちらで見られるようになってきたと感じます。照ノ富士に少しばかり期待したいと思ったりします。照ノ富士の横綱昇進を機に、みなが「品格」を気にかけるようになれば、いいのかもしれません。何も最高位の人たちだけが、身につけるべきものではないはずです。