近頃では「礼」が形骸化し、謎のマナーが乱立するようになっているのでしょうか。
「マナー」、そこから外れると失礼、無礼になってしまいます。
「礼」、「マナー」、「エチケット」など様々な言葉があります。さて、「礼」とはいったい何のでしょうか。
「品性」のよさを損ないたくない、それも立派な動機かと思いますが、それを心配して、「礼が実践されるとすれば、それは貧弱な徳行である」と新渡戸稲造はいいます。
礼とは他人に対する”思いやり”を表現すること
礼とは、他人の気持ちに対する”思いやり”を目に見える形で表現すること、新渡戸は「武士道」でこう説明します。
礼儀作法を社交上欠くことができないものとして、青少年に正しい社会上の振舞を教えこむための入念な礼儀の体系ができあがることは当然のことのように思われた。
人に挨拶するときはどのようにお辞儀をするのか、どのように歩を運び、どのように座るのか、などがこと細かま規範とともに教えられ、かつ学ばれた。食事の作法は学問にまでなった。 (出所:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
「礼は、物事の道理を当然のこととして尊重するということである」、と新渡戸はいいます。
孔子も、見せかけ上の作法は、音が音楽の一要素であるのと同じように、ほんとうの礼儀作法のほんの一部分にすぎないとを繰り返し説いたと指摘します。
茶の湯にみる「礼」のカタチ
茶の湯の集まりでは、茶碗、茶杓、茶巾などを一定の手順を教えるそうです。
その茶の湯の礼儀作法、礼の形を、新渡戸はイギリスの哲学者スペンサーの言葉、
「奥ゆかしいとは、もっとも無駄のない立ち振る舞いである」を用いて、こう説明します。
それは初心者には退屈にすら思える。
だが、まもなくしてその人は、定められたとおりの方法が結局は時間と手間を省く最上の方法であることを発見する。いいかえれば、もっとも無駄のないやり方が、もっとも奥ゆかしい方法であることを発見するのである。 (出所:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
礼儀作法の躾(しつけ)
新渡戸の時代、ヨーロッパ人たちは礼儀作法の「躾」を軽蔑的に見ていたといいます。
念入りな「躾」が思考力を奪い、礼儀作法を厳格に守ることが実に馬鹿馬鹿しく見える。儀礼的な礼儀作法は不必要なくどさがあるように見られていた。
新渡戸は、そのこの頃の西洋の「流行」と対比し、考察を加えます。
「流行」、単に虚しい気まぐれとは考えない。それは、「美」を求める人間の心の絶え間ない探求そのものである。
念入りな儀礼も、一定の結果を得るための最も適切な方法を見出すために、長い歳月をかけ知り得た結果だといいます。
「流行」の繰り返しが礼のカタチとして昇華したということでしょうか。不易流行につながっているのかもしれません。
現在の”謎マナー”も、礼の本質に戻る途上のひとつのカタチなのかもしれません。
礼、マナーを守るということ
新渡戸は、イギリスの歴史家トマス・カーライルの著作「衣服哲学」を例にします。
礼儀や儀式は精神修養の単なる外皮ではない。
ところが、その意義は私たちにその外見によって信じられているものよりはるかに大きい。(出所:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
人は得てして、他者を外見やその言葉遣いで判断したりします。他者を不愉快にしない、服装、表情、立振舞い、そして、言葉、それらは、礼やマナーとして必要な要素です。
しかし、それは礼のほんの一部に過ぎないということなのでしょう。礼を遵守するということは、道徳の訓練であると新渡戸はいいます。
論語の教え
「礼と云い、礼と云う。玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓(しょうこ)を云わんや」(「陽貨第十七」9)。
現代語に直すと、「礼式、礼式、とやかましく言うが、大切なのは、並べる玉や帛であろうか。音楽、音楽と、やかましく言うが、大切なのは、並べる鐘や鼓であろうか」となります。
礼にしろ、楽にしろ、そこで用いる道具も重要であることに違いないが、その本質を知ることが何よりも大切なことであり、その精神をもって行動することがもっとも大切なことを意味しています。
形式主義に陥るなという戒めでもあるのでしょう。
「質 文に勝てば、則ち野(や)。文 質に勝てば、則ち史(し)。文質彬彬(びんびん)として、然る後に君子たり」(「雍也第六」18)との言葉もあります。
「中身が外見を越えると、むき出しで野卑になる。外見が中身以上であると、定型的で無味乾燥。内容と形式がほどよくともに備わって、そうしてはじめて君子 教養人である」との意味です。
礼の厳しい遵守は、道徳の訓練でもあるという新渡戸の意も理解できます。
礼は、社会的な地位を当然のこととして尊重するということを含んでいると、新渡戸はいいます。ただ、それは金銭上の地位の差を表しているのではなく、それは本来、実生活上の利点に対する差を表しているといいます。
「仁」、優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。
他者の感情を理解し、尊重することから生まれる謙虚さ、慇懃さが礼の根源であるといいます。
「礼は、その最高の姿として、ほとんど愛に近づく」。
私たちは敬虔な気持ちをもって、礼は、「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動されず、およそ悪事というのをたくらまない」(出所:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
礼を身につけるための訓練を「躾」といいます。それは「身」と「美」から構成されています。礼が身につけば、「美」に近づくということなのかもしれません。 それは美しい所作だけではないということでもあるのでしょう。
所作だけにこだわることは、形式主義への入り口なのかもしれません。
「関連文書」
「参考文献」