騒々しく、心配ばかりの夏、そんな印象を受けます。オリンピック、新型コロナ、みんなが国を思い、そして、憂う。国家に対する忠義、そう受け取ることもできそうです。
「忠義」、私欲をさしはさまないで、まごころを尽くして国家や主君に仕えることを言います。
現代社会では、この「忠義」という概念は薄れているのかもしれませんが、今ある状況からすると、私たちのどこかにその感情が残っているのでしょうか。
新渡戸稲造は、「武士道」では個人より国を重んじるといいます。
一族の利害とその個々の成員の利害は一体不可分であるとする。
武士道はこの利害を愛情、すなわち自然で、本能にもとづくもので、かつ他の者がとってかわることができないもので結びつけた。 (引用:「武士道」新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
「私たちにとっては法律や国家が唯一の人格に相当していた.....「忠義」とはまさしくこの政治理論の結果である」と言います。
これに対し西洋の個人主義は、個別の利害を認め、人が他に対して負っている義務は著しく軽減していると指摘します。
論語の教え
「論語」において「忠義」を含む、章は存在しませんが、「忠:まごころ」を含む文章は多く見ることができます。
「君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事(つか)うるに忠を以てす」(「八佾第三」19)。
「忠」、君臣間の忠義を意味するのではなく、ひろく一般に「まごころ」をつくすという意味であるといわれています。
「処に居(お)りては恭(きょう)、事を執(と)りては敬、人に与(くみ)しては忠、夷狄(いてき)に之(ゆ)くと雖(いえど)も、棄(す)つ可からざるなり」(「子路第十三」19)。
弟子の樊遅が「仁」とは何でしょうかと孔子に質問し、「日常生活においては、自分を抑えて慎み深くし、仕事においては、他者に対して敬意を忘れず、集団生活においては、忠:まごころを尽くす。野蛮な地に行っても、それを辞めないことである」と、孔子が答えています。
孔子は人間関係において「忠」を求めるが、国家に対して求めてはいないようです。
新渡戸も「忠義」は日本独特のものといい、「私たちが他の国では到達しなかったくらいまでその考えを進めたからである」といいます。
武士道の忠義とは
「武士道は、私たちの良心を主君や国王の奴隷として売り渡せとは命じなかった」
と、新渡戸は言います。さらに、「主君と意見がわかれるとき、家臣のとるべき忠節の道は、あくまで主君のいうところが非であることを説くことである」といいます。
また、「己の良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲にする者に対しては、武士道の評価は極めて厳しかった」といいます。
佞臣や寵臣を嫌い、無節操な諂い、従順かつ卑屈な下僕になることやしぐさを偽り、心の奥底では自分のことだけを考えるような愚か者を嫌ったといいます。
忠義も行き過ぎれば、個人攻撃につながったりします。
行き過ぎた個人攻撃は如何なものでしょうか。人格否定は慎む行為なのではないでしょうか。
「中庸の徳為る、其れ至れるかな。民 鮮(すく)なきこと久し」(「雍也第六」29)との言葉が論語にあります。
「中」は偏らず、過ぎたると及ばざるとのないこと。
「庸」は平常、あたりまえで変わらないこと。
「中庸の徳」は、東洋、西洋の区別なく倫理学の主要な概念の一つと言われています。
アリストテレスの倫理学では、徳の中心になる概念で、「過大」と「過小」の両極端を悪徳とするそうです。徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとしたといいます。
「子 川上(せんじょう)に在り。曰わく、逝く者は斯(かく)の如きか。昼夜を舎(お)かず」(「子罕第九」19)との言葉もあります。
孔子が川のほとりにいて、水の流れを見ながら、すべて過ぎゆくものはこの川の水と同じなのだな、昼も夜も一刻も止まることがない、嘆いたとの意味です。
孔子が、人間も歴史も自然も時とともにうつろうてやまぬことを詠嘆した、静かな諦念の境地と桑原武夫は解説します。
時として、こうした諦念が必要なときもあるような気がします。