子張(しちょう)曰わく、徳を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤(あつ)からざれば、焉(いずく)んぞ能(よ)く有りと為さん、焉んぞ能く亡(な)しと為さん。(「子張第十九」2)
(解説)
子張の言葉。「人格を高めるとしてもある程度で終わり、人の道を信ずるとしても熱心でないとすれば、その人に道徳があるともいえないし、ないともいえにことになる」。(論語 加地伸行)
道徳ばかりでなく、何においても言えることなのだろう。その道(学問や仕事、趣味など)のことを知ろうと思えば、熱心にそれに関わることを調べたりする。それによって、様々なことを知って、楽しみも増える。
たとえば登山であれば、登る前に登る山のことを調べる。登山が好きになれば、色々なことを調査するようになるかもしれない。登山の歴史だったり、道具のことだったり、それを作る会社のことであったり、草木や自然のことだったりするかもしれない。調べてみれば、さらに興味がわき、次の山行が楽しみになったりする。繰り返し山を登るうちに登山のマナーも身に付き、無謀なことを慎むことを覚えるのかもしれない。山で危険な行為を行えば、遭難に直結し、他者に多大な迷惑をかけることになり、自分の生命も危険に晒すことにもなる。
下界におりてくれば、情報があふれ、無意識に取捨選択しているのかもしれない。何かを等閑にすれば、そこからは何も生まれてこない。
知事リコールの署名偽造や選挙買収、外国人技能実習生の受け入れを行なう公益財団の会長が不正行為を行ったり、信じがたい行為が横行する。自分のこと、自分の利益しか考えていないのだろうか。なぜにして、こうしたことが意図も簡単にできるようになってしまったのだろうか。
「徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からざれば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん」
こうした不正ばかりの環境にある、自分を律することができなければ、いつ自分が不正に手を染めるかわからない。いつからこんな社会になってしまったのだろうか。
道徳を知らないリーダーが多過ぎはしないだろうか。
「子張」、姓は顓孫、名は師、字名が子張。陳の人で、孔子晩年の弟子。もっと若く秀才といわれる。「礼」の専門家。「史記」に、「師や僻なり」とあるように、時として正統を離れる異説を好んだようであるという。
人となり才が高く、意が広く、人の感情などに拘らないところがあったという。子路、子貢に次いで登場回数が多く、それだけ影響力もあったのだろうか。
(参考文献)