静岡県の保育園で園児虐待が行われていたといいます。また、長野県では子どもの声がうるさいからといって公園が廃止になりました。
子どもの声がうるさいから公園が廃止…それでいいの?揺れる長野市の現地で徹底取材〈声のチカラ〉|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト
なぜにこんな社会になってしまったのかとつくづく感じます。
その一方で、「目先の目標に振り回されるままでいいのか」、「何か人としての根っこのようなものが必要なのかもしれない」、そんな疑問を多くの人たちが感じ始めているようだともいいます。
何かがおかしいと感じることが増えていないでしょうか。
国会では連日、野党が品行に問題のある大臣や政務官を追求しています。一方、首相は責任説明を果たせと言い、そうした面々を擁護しているように受け取れてしまいます。
杉田水脈政務官の差別発言 撤回と謝罪を指示、松本総務相:朝日新聞デジタル
一体、政府与党は何をしたいのだろうかとの疑念が増すと同時に、いつまでもたっても政治は進化しないし、これでは日本が劣化するのもやむなしかとも感じます。
歴史は繰り返さないが、韻を踏む。(出所:日経ビジネス)
第2次世界大戦が始まって間もないころに勃発した「ソ連・フィンランド戦争」を例にして、ロシアがウクライナに攻めこんで、そのときと同じようなことを繰り返していると池上彰氏はいいます。
池上彰氏「ウクライナ危機とソ連・冬戦争。なぜ教養を学ぶのか」:日経ビジネス電子版
世界史で学んだかもしれない歴史的事実を実際に役立つとは思わず、また、入試にも関係ないとして、人々は記憶しようとしていないのではないかといいます。
歴史とは、学んでもすぐには役立つものではないが、「韻を踏む」さまを目の当たりにして、人間の愚かさを知ることもできるといいます。
戦前、外相や首相を務めた広田弘毅のことを思い出します。
広田は外相時には「自分が在任中に戦争は断じてない」としながら、暴走する軍部を止めることができませんでした。首相に就任しからは、粛軍を断行し、庶政一新を図りますが、一方で、軍部による帝国国防方針を「国策の基準」として決定し、日独防共協定の締結など行っています。
その後広田内閣が倒れ、再度外相に任命されますが、勢いを得た軍部を止めることはできず、また対支強硬論も抑えることができずに、事態の好転を図ろうにも尽力は叶ず、戦争が拡大し、日本は戦争の泥沼に引きずり込まれていきます。
「反撃能力」保有、与党が正式合意 安保政策大転換、戦略文書明記へ―中朝念頭、3要件で行使判断:時事ドットコム
長い人間の歴史を見ることによって、今を深く見る視点が養われる。そういう役割が教養にはあるのではないか(出所:日経ビジネス)
岸田首相が、文官宰相だった広田弘毅とだぶります。少々危険なような気がします。
もしかしてこの時代に求められているのは、「教養」なのかもしれないと感じたりします。国会での論戦を見ているとつくづくそう感じます。
すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる (出所:日経ビジネス)
この言葉は小泉信三によるもので、「教養というのは本来、すぐに役に立つものではない。だけど、じりじりと自分の生き方に影響が出てくるもの」と意味すると日経ビジネスは解説しています。
論語に学ぶ
達巷(たつこう)の党人曰わく、大なるかな孔子。博学にして名を成す所無し、と。
子 之を聞きて、門弟子(もんていし)に謂いて曰わく、吾 何を執(と)らん。御を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾は御を執らん。(「子罕第九」2)
専門の看板を掲げて、この一筋に生きている、ほかのことについては一切無知であるという顔するのが、純粋に見えて出世の早道である。雑学はいつもけなし言葉である。
孔子はたいへんな博学だったそうで、専門家づらすることがなかったといいます。
孔子が生きた古代では、六藝「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」が、古代紳士(君子)が知っておかねばならないこととされていたそうです。いわば教養ということでしょうか。また孔子は学習を続けることの重要性も説いています。
この章における「御」と「射」は必須課目であったそうですが、これらを専門とすることはあまり立派ことではなかったといいます。桑原武夫はこれを現代風に訳するのなら、「御」は車を動かせ、「射」はゴルフがうまい、それらを生業にし、大金を稼ぐのもいいのでしょうが、それだけでは専門と言わず、まして孔子がいう君子ではないともいいます。
政府がリスキリングで勧める「デジタル」も現代の教養のひとつなっているのかもしれません。しかし、それだけを知って専門家になったというのもまた違うということなのでしょう。
適切な判断をできるよう、教養を学び直すことも並行してできるといいのかもしれません。それによって人格が磨き直されることもありそうです。