「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【私たちのお金】変わり映えしない人たちに感じる不安、未来を託せるのか ~論語と算盤 #13

 

 自民党の総裁が変わると聞けば、やはり気になります。この先、どうなるのだろうかと、不安に近い感情がもたげます。候補者たちが各々その政策を発表しているようです。

「○○ノミクス」、聞き飽きたような気がします。もう色褪せたのではないでしょうか。

 それでも、また、どこかの候補が積極財政を唱え、物価安定目標2%を達成するまでは基礎的財政収支規律を時限的に凍結し、戦略的な財政出動を優先させると述べたといいます。これまで8年近く、物価安定目標2%を目指して、金融緩和と積極財政を続け未達だったのに、また同じ目標を掲げています。

「打ち出の小槌」で、魔法でも使えるのでしょうか。

 膨れ上がった国の借金。それでも信奉者はいるのでしょうが、将来に不安を感じずにはいられません。未来世代に禍根を残すようなことにならないでしょうか。

 

 

新自由主義的政策を転換する」、所得の増加によって分厚い中間層の復活を目指すという候補者もいます。これまでの施策で、中間層の仕事がなくなったのだから、それを改めることはいいのかもしれません。

 朝日新聞によれば、「具体策として家計の重荷とされる教育費や住居費の支援、看護師や介護福祉士、保育士らの待遇改善、大企業による厳しい原価低減要求から中小企業を守る施策などを並べた」といいます。

 ただ、「○○ノミクス」については「間違いなく経済は成長した」と評価し、3本の矢の大規模な金融緩和、機動的な財政政策、成長戦略は堅持するといいます。

 多少矛盾を感じてしまいます。基本政策がこれまでと変わらずして、中間層の復活はあるのでしょうか。

 前者も後者も、多少言葉の違いはあるのかもしれませんが、内容に大きな差は感じません。

過ぎたるは猶及ばざるが如し

「師や過ぎたり。商や及ばず、と。曰わく、然(しか)らば則ち師は愈(まさ)れるか、と。子曰わく、過ぎたるは猶及ばざるがごとし」と、論語「先進第十一」16 にあります。

 子貢という弟子が、やはり孔子の弟子である「師(子張)と商(子夏)と、どちらがすぐれていますか」と尋ねたところ、孔子は「師は多いな、商は少ないな」といい、「多いも少ないも同じことだ」と答えたといいます。

dsupplying.hatenadiary.jp

「過」も「不及(不足)」も同格であって、中庸を失っている点では、ともに良くないという意味です。

 この二人の主張も、このようなものでしょうか。

 

 

 過剰にお金を使うこと、それも長年にわたって....

 それがいいこととは思えません。経済再生という大きな目標を掲げては、同じ政策を続け、一向に改善されず、また同じことを繰り返そうとすれば、それはもうマスターベーション、自己満足としか思えません。絶望に近い「不安」を感じてしまいます。

「漠然とした不安にさいなまれ、それを解きほぐす方法が分からずに悩む人が多いのです」とハフポストはいいます。

「日本の景気は低迷し続けているようだ」

少子高齢化が進んでいるけれど、自分が老後を迎えるころには年金制度はどうなっているのだろうか」 (出所:ハフポスト)

 こうした言葉のほうが説得力がありそうです。しかし、どうもなかなか総裁選の候補者の言葉とはうまく結びつきそうにありません。

 ハフポストは、「お金の増やしかた」を解説します。

www.huffingtonpost.jp

「無駄づかいをしないこと」「だまされないこと」など消費者としての心構えや教訓に偏ったものが多いです。親から「預貯金が一番安全だと教わった」と言う20~30代の相談者もいますが、今は銀行に預けておくだけでお金が増える時代ではありません。(出所:ハフポスト)

 そして、昔の常識は今の非常識――知識はどんどんアップデートしていく必要がありますといいます。

「お金への偏愛は諸悪の根源だ」、「富は、それを持てる人の心の気高さを示すものではない」と、サミュエル・スマイルズも「セルフヘルプ(自助論)」でそう説いたのだから無理からぬことなのかもしれません。

 

 

 ただこうした古典が説くのは、「不正な蓄財」や「浪費」を戒めるものであって、「金銭」の価値を否定していません。お金を正しく稼ぎ、使うことを説いているといってもよいでしょう。

「金銭は手段であって、目的ではない」と説いているのです。

「豊かになりたい」という願望は誰もが抱くものであってごく自然なことです。それを実現するにはお金が必要なことは自明ですし、もしお金がなくなれば心の平安を失ってしまいます。

「どれだけお金を貯めたらいいのか分からない」

という不安への対処は、ライフプランを立てることですとハフポストはいいます。それも然り、いくら蓄えても、消費ばかりで目減りしては、心の平安はありません。

 一般的に、貯蓄ばかりでなく、自然に資産が増えるようなものに投資することも勧められています。

 現在の社会制度は株式市場を容認し、その有用性が説かれています。渋沢栄一明治維新のころ、フランスに渡り、学んだのもそのことでした。

 少額を市場に投資することで、栄一が仕えた徳川昭武の生活費の一部を捻出、それに充てていました。栄一には必要以上に儲けようとの意識はなかったのかもしれません。

 

 

 みながまじめに仕事をすれば基本、会社の株価は上昇します。ただそれだけのことなのかもしれません。

 どの国の株価の代表的なインデックス(例えば米国のダウとか、S&P500など)は短期的な凸凹はあっても、ものすごく長い目でみれば、右肩上がりになっているはずです。変に儲け根性が出たり、貪欲になり人の道から外れることがなければ、痛い目にあうことはないのかもしれません。

 過剰が不及、不足を生み出すといってもいいのかもしれません。過剰な期待が不足を生んでいるのでしょう。その意味で、古典が指摘する「お金への偏愛は諸悪の根源」のような戒めが必要になるのでしょう。

論語と算盤

「(お金を)よく集めて、よく使い、社会を活発にして、経済活動の成長を促すことを、心ある人はぜひとも心がけて欲しい」と渋沢栄一は言います。

 よく使うとは、正しく支出することであって、よい事柄に使っていくことを意味するといいます。

よい医者が大手術で使い、患者の命を救った「メス」も、狂人に持たせてしまえば、人を傷つける道具になる。これと同じで、我々はお金を大切にして、よい事柄に使っていくことを忘れてはならない。(引用:「論語と算盤」渋沢栄一 P102)

 また、栄一は「お金とは大切にすべきものであり、同時に軽蔑すべきものでもある」といいます。そして、どう大切に扱うかは、すべて所有者の人格によると強調します。

「世間では、大切にするという意味を間違って解釈し、ひたすらケチに徹してしまう人がいる」、「これは本当に注意すべきことでもある」

 お金を無駄に使うことを戒め、しかし、同時に、ケチになることも注意しなければならない。よく集めることを知って、よく使うことを知らないと守銭奴になってしまうと栄一はいいます。

「使う」という意味を正しくしていかなければならないのでしょう。

 栄一は常々、「論語」道徳と「ソロバン」経済を一致させなければならないといっています。