日本銀行が、今月開催した金融政策決定会合での発言内容を公表しました。
先の会合で、気候変動に関する新たな資金供給の仕組みを導入する方針を決めていましたが、その場では、気候変動に対応する企業の取り組みを金融政策で支援することは「中央銀行のマンデート(使命)に沿う」といった意見が相次いでいたそうです。
物価と金融システムの安定を担う中銀の立場から気候変動対応の政策を講じる意義を日銀内で共有した様子がうかがえると日本経済新聞はいいます。
気候変動対策で先行する欧州に先んじる動きのようです。社会にどのように影響していくのでしょうか。大きな変化がおきるのかもしれません。
日銀は7月の会合で骨子を固め、年内をめどに運用を始めるそうです。
日本初の銀行設立と渋沢栄一
日本銀行が設立されたのは1982年のことです。その前の1873年、明治6年に日本に初めて近代的銀行「第一国立銀行」が設立されます。
渋沢栄一らの勧めで、当時別々に銀行設立を計画していた三井、小野両組が、共同出資で設立しました。日本銀行が設立される前のことですから、この銀行は発券機能も有していたそうです。
栄一は設立とともに総監役として経営に参画します。その後、小野組が破綻すると、それを機に栄一が頭取になり、栄一の指導のもと、金融界の近代化の先駆けとなっていきます、王子製紙会社など近代工業の育成にも力を尽くしたといわれます。
この銀行設立が、その後、栄一が大活躍する契機になったようです。
そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つことは限りない。
しかしまだ銀行に集まってこないうち金は、溝に溜まっている水や、ぽたぽた垂れるしずくと変りがない。時には豪商豪農の倉の中に隠れていたり、日雇い人夫やお婆さんの懐に潜んでいたりする。それでは人の役に立ち、国を富ませる働きは現わさない。水に流れる力があっても、土手や岡にさまたげられては、少しも進むことはできない。
ところが銀行を立てて上手にその流れ道を開くと、倉や懐にあった金がより集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁昌しするし、産物も増えるし、工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての国の状態が生まれ変わったようになる (引用:「論語と算盤」渋沢栄一 P232~233)
この記録は、第一国立銀行が株主を募集したときに栄一が記したものだといわれています。
江戸幕府の封建体制が崩壊し、まったく新しい社会を一から作り始めたのが明治の時代。栄一の言葉は、新しい時代の息吹を感じさせたのでしょうか。
現代は、地球温暖化という世界共通の問題があり、化石燃料を中心とした古い経済構造を見直し、新しい経済社会を作っていくことが求められています。一から社会を作り直さなければならないということでは、明治のころと状況は変わりないのかもしれません。
そして、今、日本の中央銀行、日銀が、この問題に対処すべく動き始めるのです。
「論語」と渋沢栄一
この銀行設立を前に、栄一は当時勤めていた大蔵省を辞することになります。
このとき、同僚の玉及世履(たまのせいり)に引き留められ、そのやり取りを通して、栄一は「論語」を目安として、一生商売すると決心したといいます。
.....それからというもの、勢い「論語」を読まなければならなくなり、中村敬宇先生や信夫恕軒先生の講義を聴いた。(中略)解釈について意見が出たりして、なかなか面白く有益である。一章一章講義し、皆で考えて本当にわかった後に進むのだからなかなか進まないが、その代わり意味はよくわかって、子どもなども大変に面白がっている。 (引用:「論語と算盤」渋沢栄一 P24)
そんな栄一の言葉から、「論語」の第一章の言葉を思い出します。
子曰わく、学んで時に之を習う、亦た説ばしからず乎(またよろこばしからずや)。有朋遠方より来たる、亦た楽しからず乎。人知らずして慍らず(いからず)、亦た君子ならず乎。 (「学而第一」1)
この『論語』開巻第1章は、「学問の喜びについて述べたもので、学問を共に志すものは孤独ではない。必ず友が遠くからもやってきて、同じ道にいそしむ喜びが味わえる」との意味があります。
栄一もそんなことを感じていたのではないでしょうか。そして、それが栄一の決心をさらに強固なものにしっていったのかもしれません。
私心のない日本資本主義の父
「論語と算盤」では、私心ではなく公益を優先させようとする栄一の想いが繰り返しでてきます。
あくまでも国家を富ませ、人々を幸せにする目的で、事業育成を行なう。そして、業界を育てるためであれば、たとえライバル企業であっても、どちらの企業にも役員として就くことも厭わなかったようです。
そうした彼の態度に批判もあったといわれますが、自分の大義に照らし、怯むこともなかったそうです。
栄一が王子製紙の社長をしていたときのこと、三井財閥が人心の刷新を求めてある人物を派遣、栄一に辞任を求めたといいます。この時、栄一は相手の言い分にも一理あると認め、あっさりと社長を辞したといいいます。
しかし、栄一はこの人物を恨むことなく、自分が関わっていた大日本精糖の経営が傾いたときに、彼を社長として送り込んだというのです。
長年御恩顧を蒙った渋沢男爵の御推薦であり、又日本の経済界が、これによって如何に動揺するかと云うことを考えるならば、自分は今一身の利益を顧みる暇なくして、此仕事に従事しなければならぬ。 (引用:「論語と算盤」渋沢栄一 P236)
その人物、藤山雷太氏の言葉が記録に残っていて、そこからも私心なき栄一の様子を窺い知ることができます。
SDGs/ESG ステークホルダー資本主義の時代へ
SDGsやESGが問われる時代になり、その中での最大の関心事は気候変動です。その大きな社会課題を解決していくことが今求められています。
従来のように、利益至上主義ではく、社会課題を解決して利益を上げ、株主、顧客、従業員、企業に関わるすべきの人の幸せを考えるステークホルダー資本主義の時代になったとも言われます。
言葉こそ違えど、栄一が求めていたものと大きな差はないのかもしれません。
一方で、栄一が関わり発展した企業が今日の気候変動の原因を作ってきたと言っても過言ではないのかもしれません。製紙は今では多量に二酸化炭素を排出する業界のひとつとして指摘されています。
素直に市場の声に耳を傾ければ、カーボンニュートラルは逃れられない課題であることが理解できます。ニーズが明確で、顧客そして株主の声がこれほどはっきりしていることはありません。
学びとはまねること、習うとは繰り返し行うこと。
「学んで時に之を習う、亦た説ばしからず乎(またよろこばしからずや)。有朋遠方より来たる、亦た楽しからず乎」
一つの学説を知り、それにもとづいて他の本を読んでみたり、自然や社会の現象を解いてみたりする。そうしたことを繰り返していると、必ず友となる人もやってきて、同じ道を営む仲間となり、喜びを分かち合える。
栄一も論語のこの章を読み、学び会得しながら仲間を増やし、そして、今日の日本の資本主義の原型を作ったのでしょうか。
時代が変わり、社会課題も大きく様変わりしました。栄一の資本主義をアップデートするときなのかもしれません。
孔子生きた時代を考慮し「学」を歴史的に読めば、学ぶとは「詩経」や「書経」などの古典を先生から読み聞かせられ、それを覚えこむこと、つまりまねびであり、「習」とはおそわった礼儀作法の実習であったのだろうかと、文学者の桑原武夫はいいます。
現代の私たちとしては、学ぶとは何かを知ることであり、習うとは知ったことを実際にやってみることをいう。 (引用:論語 桑原武夫 P8)
友遠方より来る
孔子は、密室でひとりで学問する人ではなかった、そのことがこの章で明らかにされているといいます。
学習していると自ずと仲間ができる。その学友が遠いところからやって来る、そして談笑のうちに真実を探る。なんと楽しいことではないか。
孔子のその言葉に、渋沢栄一の姿を見るような気がします。 そうして明治の新しい時代が始まっていったのかもしれません。
(参考文献)