子曰わく、古(いにしえ)の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。(「憲問第十四」24)
(解説)
孔子の教え。「昔の学徒は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていた。今の学徒は、他人から名声を得るために学び努めている」。(論語 加地伸行)
学問をしていても人に知られない、つまり自分の能力が社会に認められないことは往々にしてあると桑原はいう。しかし、そうしたことで腹を立てたりしない、そうした人が君子、つまり品格の高い立派な人というべきではなかろうという。
桑原は、和辻哲郎のことばを紹介する。
学問の成果は、「自己の人格や生を高めるという自己目的的なものであって、名利には存しない」 (引用:論語 桑原武夫 P9)
「学んで時に之を習う、亦た説ばしからず乎。有朋遠方より来たる、亦た楽しからず乎。人知らずして慍らず、亦た君子ならず乎。」と、孔子は「学而第一」1でいう。
孔子の「仁」は名利を求めはしないが、広く社会のためにという意味を持っている。したがって、自分の学問は仕官してこれを社会のために活用したいという志向が常にあるが、たとえそうした希望が叶えられなくても、それも「天命」と心得て、平静な心境でいるの立派なのであると桑原はいう。
「人知らずして慍(いか)らず」、それは孔子自身のことではないかという。
渋沢の時代も、ただ学問のための学問をしている輩が多いという。
初めから「これだ」という目的がなく、何となく学問をした結果、実際に社会に出てから、「自分は何のために学問してきたのだろう」というような疑問に襲われる青年が少ない。
「学問をすれば誰でもみな偉い人物になれる」という一種の迷信のために、自分の境遇や生活の状態も顧みず、分不相応の学問をしてしまう。その結果、後悔するようなことになるのだ。 (引用「論語と算盤」P194)
栄一は、「底の浅い虚栄心のために、学問を修める方法を間違ってしまうと、その青年自身の身の振り方を誤ってしまうだけではなく、国家の活力衰退を招くもとになってしまうのである」という。
耳に痛い話である。
(参考文献)