東芝問題が気になります。定時株主総会が25日に開催され、永山取締役会議長の再任案が否決されたそうです。
「経営体制の再構築や企業風土改革の先導役を失い、先行きには暗雲が漂う」、東芝は漂流の危機に瀕しているとJIJI.COMが伝えます。
不正会計問題、原発事業による巨額損失などの問題が近年次々と明るみになりました。それにも関わらず、また、問題が起こり、さすがにもう何を言われても言い訳できそうにもありません。
ブルームバーグによると、「オープンになりきれない企業体質そのものが昭和のまま」、「密室政治のようなことは必ずばれるというのが令和の教訓。そこにまだ至っていない」と、東芝の内向きの体質を東京都立大学大学院の松田千恵子教授が批判したそうです。
「ガバナンス(企業統治)不全」なのでしょうか。
明治期に活躍し、日本実業界の父といわれた渋沢栄一は、「論語と算盤」で、士魂商才を説きます。
士魂商才とは、人の世の中で自立していくためには武士のような精神が必要であるとする一方で、武士のように精神ばかりに偏って「商才」がなければ、経済の上からも自滅を招くようになるということ意味しています。
「武士は食わねど高楊枝」、当時の武士は清貧や体面を重んじる気風があったといいます。時代が変わった明治では、武士のやせ我慢ではもう食べていけない、そのためには商才、今でいえばビジネスセンスを身につけるべきといいたかったのでしょうか。
栄一は、養蚕や藍玉の生産を手がける豪農の出身です。早くから金銭感覚、商才を身につけていたのかもしれません。
無能で無学なのに、それなりの地位につける江戸幕府に対する憤りがあったといわれます。金銭感覚もなく、ただ金銭を無心する役人の姿が不道徳なものに感じていたのでしょう。 その憤りが、「士魂商才」にもつながっているのかもしれません。
それから150年あまり経った現代では、商才ばかりが重視され、士魂は色褪せ、道徳なき利益を追求するようになってしまったようにみえます。
東芝の問題も突き詰めれば、そこに原因があるのかもしれません。
「商才」とは、もともと道徳を根底にしていると栄一はいいます。
不道徳やうそ、外面ばかりで中身のない「商才」など、決して本当の「商才」ではない。そんなのせいぜい、つまらない才能や、頭がちょっと回る程度でしかないのだ。 (引用」「論語と算盤」P16)
栄一が指摘する言葉が今でも通用しそうな気がします。
士魂がまだ色濃く残る明治では、商才が必要な能力だったのかもしれませんが、商才、歪んだ商才がもてはやされるようになった現代では、明治の頃とは逆に、士魂、「道徳」が求められているということなのかもしれません。
「商才と道徳とが離れられないものだとすれば、道徳の書「論語」によって「商才」を養える」と栄一は言います。
【論語 「学而第一」4】
「吾 日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」とは、論語に出てくる曾子の言葉です。
他者のために相談にのりながら、いい加減にして置くようなことはなかったか、友人とのつきあいで、ことばと行ないとが違っていなかったか、まだ十分に身についていないのに他者に与えてしまったか、そういうふうに内省するとの意味です。
「忠」とは、かりそめにせず、まごころを尽くすこと。
「信」とは、誠実、特に言葉における信義。
「伝不習乎」は、十分に勉強しないで、つまり自分自身が納得がいくまで理解習熟していないことを軽々しく後進に伝えているのではないかということを意味します。
ガバナンスや企業文化が東芝の問題と指摘されています。それは人にかかわる問題ではないでしょうか。
栄一が指摘した「士魂商才」、「論語と算盤」を身につける必要があるように思えてなりません。
東芝は何を基準に人材教育をしているのでしょうか。問題の本質がそこにありそうです。
論語のことばを参考にして、考えてみるのもよいように思います。
「参考文献」