「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

残念、鬼滅の刃制作会社が脱税【マナーを学べば誠実に近づく】~論語と算盤 #6

 

鬼滅の刃」の制作会社「ユーフォーテーブル」の社長が所得を隠し脱税したと在宅起訴されたといいます。社長宅の金庫からおよそ3億円の現金がみつかったそうです。

 子どもたちに人気のアニメ関連で、不正行為があったことに残念と感じずにはいられません。

 なぜに自己を抑制することができず、欲望のままに行動してしまうでしょうか。

 

己を知る、身の丈を知る

「蟹は、甲羅に似せて穴を掘る」という一節が、「論語と算盤」にあります。

 栄一がフランスから帰国しての話。

 帰国し、しばらくすると大蔵省に出仕することになりますが、栄一はその後、心を期して実業界に転身していきます。が、その意思とは別に、「ぜひ大蔵大臣になってくれ」とか「日本銀行の総裁になってくれ」とのとの交渉があったといいます。

「実業界に穴を掘って入ったのであるから、今さらその穴を這い出すことはできない」と思い、栄一は固辞します。

世間には、随分と自分の力を過信して、身の丈をこえた望みを持つ人もいる

しかし進むことばかりを知って、身の丈を守ることを知らないと、とんだ間違いを引き起こすことがある。(引用:「論語と算盤」 渋沢栄一 P39) 

ユーフォーテーブル」の一件もこうしたことが背景にあるのでしょうか。

 関雎は楽しみて淫せず、哀しみて傷らず

 そうはいっても、その逆もあって、身の丈に満足してばかりいては、進歩が止まることになります。

 栄一は、バランスをとらなければならないといい、「欲望のままに振舞っても、はめを外さない」と説きます。これは孔子の言葉だといいます。

 人には喜怒哀楽、感情があって、人間が世間との付き合い方を誤るのは、この感情が暴発してしまうからだと言います。そして、「論語」の言葉を引用して、喜怒哀楽もバランスをとる必要があるといいます。

関雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」(「八佾第三」20)

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「関雎の詩句は楽しいが、走り過ぎない。哀しいところはあるが、溺れ過ぎない」との意味で、仕事ばかりでなく遊びも「走り過ぎず、溺れ過ぎず」を限度と心得るべきと栄一は言います。

 そして、それが「何事も誠実さを基準とする」になるといいます。 

 

 自己を磨く、マナー学ぶ

「修身」――回りくどく難しくなるが、自分を磨くということに尽きる。

 わかりやすく言えば、「箸の上げ下ろしの間の心がけにも十分その意義が含まれている」と栄一は言います。孔子はその意味を次の一節のなかで余すことなく説いているといいます。

公門(こうもん)に入(い)るとき、鞠躬如(きくきゅうじょ)として、容(い)れられざるが如くす。立つに門に中せず。行くに閾(いき)を履(ふ)まず......(以降略)(「郷党第十」3)

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 現代語訳は、「孔子が、国君の表門に入るとき、慎んで身体を曲げ、入れないかのような感じであった。また、立ち止まることがあるときは、脇に寄り、閾(しきい)を踏むなどということはしなかった。国君が佇立(ちょりつ)される場所を通り過ぎるときは、顔色を正し、足は進まないありさまであった。言葉を慎みに慎んだ。衣のすそを摂(と)って政庁の堂に昇るとき、慎んで身体を曲げ、息をひそめ、ほとんど息をしない感じであった。退出して階段を一段降りるとき、厳しい顔色が解け、喜ばしい感じであった。階段を降りきられ、趨(こばしり)してお進みのときのお姿は端正であった。国君の佇立場所をくりかえしお通りのとき、うやうやしい様子であった」となります。 

 

 さらに、栄一は「論語」を引用します。

「斉すれば必ず食(し)を変え、居は必ず坐を遷(うつ)す。食は精を厭(さわ)めず、膾(かい)は細きを厭わず。食の饐(い)して餲(あい)し、魚の餒(たい)したるや肉の敗れたるは食(く) らわず。色の悪(あ)しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。飪(じん)を失いたるは食らわず。時ならざるは食らわず。割くこと正しからざれば、食らわず。其の醤 を得ざれば食らわず.....(後略)」(「郷党第十」6)

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 現代語訳は、「斉(ものいみ)して心身を浄めるとき、常食を必ず改め、常の居室も変え別室に移る。主食の穀類はそれほど精白でなくてもかまわないし、膾(なます)それほど細かくきざんだものでなくてもかまわなかった。飯が暑さで饐(す)えて味の悪くなったもの、魚肉の傷んだもの、獣肉の腐ったものは食べない。色の変わったものは食べない。臭いの悪いものは食べない。ころあいに煮ていないものは食べない。季節(旬)の物以外は食べない。料理法の異なったものは食べない。肉は適切な醬(つゆ)がないと食べない」。

 これらの教えはごく身近な例だが、こうした中に「道徳や倫理」があるのだろうと、栄一は言います。

箸の上げ下ろしの間の心がけ」、そうしたマナーの中に、「道徳や倫理」があるといことをいっているようです。

 わたしはその意味において、家族に対しても、客に対しても、その他手紙など何かを見るのにも、誠意を尽くしている。(引用:「論語と算盤」 渋沢栄一 P37) 

 それが栄一の生き方の根底なのでしょうか。

 社会に生きていく方針として、「忠恕」――良心的で思いやりある姿勢を一貫するという考え方を貫いてきたと説きます。

 自分以外のものすべてに「誠意」を尽くす。そんな感情が満ちれば、不正の入り込む余地が微塵もないということなのでしょうか。

論語の教え

「子曰わく、参(しん)。吾が道は一以て之を貫く、と。(中略)曾子曰わく、夫子の道は、忠恕のみ」。(「里仁第四」15)

 孔子曾子に「参(曾子の名)君よ。わが人生は一つの道理で貫いてきたのだ」といって、部屋を退出すると、これを聞いていた門人たちが曾子にその意味を問うたといいます。すると曾子は「孔子の人生は、まごころ(忠)と思いやり(恕)、それ尽きる」と答えたとの意味です。 

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忠恕」、

」は自己に対する誠実、

」は他人に対する思いやり。

二つ合わせて人間に対する愛情ということになる桑原武夫はいいます。

 

 已んぬるかな、吾未だ能く其の過ちを見て、内に自ら訟むる者を見ざるなり

 孔子の嘆き。「残念だな。己の過ちを認め、心の中で己を責めることができる者に出会ったことがないのだ」(「公冶長第五」27) 

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桑原武夫の解説、

「人間は過ちを犯すことは避けられない。しかし多くの場合、人はあることが過ちであることに気がつかない、あるいは気がつこうとしない。気がついてもなんとか取り繕うとする。

本当に学問をしている者すなわち道徳的であろうとする人間は、過ちを知ったならば自分を心で咎めなければならないはずだが、そういう人間が見られなくなった。これでは、もうおしまいと言わざるを得ない」。

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 様々な不祥事が続いています。世も末、「これでは、もうおしまい」と感じてしまいます。孔子が生きた古代から、人間の性は何ら変わりがないということなのでしょうか。

 栄一の教えを活かしていかなければならないのでしょう。

 

「参考文献」