辞任に続き、解任。混乱の極みと感じてしまいます。悪いところが一気に露呈したのでしょうか。それがオリンピックのこととなれば、ただ恥ずかしいばかりです。何故、こうなってしまうのでしょうか。
「人の過つや、各々其の党に於いてす。過つを観れば、斯ち仁を知る」(「里仁第四」7)という言葉が論語にあります。
荻生徂徠によれば、「人民が過失を犯すとすれば、それはそれぞれ自分の住んでいる地域社会の感化によるものであるから、人民の過ちのあり方をみれば、そこの支配者である君主の仁つまり道徳の高低、その影響いかんがわかる。だから、君主たる者はいたずらに人民の過失を咎めだてするよりも、まず自己反省すべきだ」との意味だそうです。
今回の一連の騒動も、これまでの社会の写し鏡だったということでしょうか。
「善人 邦を為(おさ)むること百年ならば、亦(また)以て残(ざん)に勝ちて殺を去る可し」(「子路第十三」11)といいます。
善人が為政者となって百年もの時があれば、残忍な連中も感化し、死刑も不要となることができるとの意味です。
孔子のこのことばが真であれば、これまでの為政者が「いじめ」や「差別」の問題を軽視していたということなのかもしれません。
また、こんな言葉もあります。
「不孫(ふそん)にして以て勇と為す者を悪む。訐(あば)きて以て直(ちょく)と為す者を悪む」(「陽貨第十七」21)。
これは孔子の弟子子貢が「君子 教養人もまた憎むことがあるのか」と質問したときの孔子の言葉で、「自分の傲慢な行動を勇敢と思っている者、他者の秘密を暴露して正直としている者、こういう連中をな」との意味です。
先頃まで国政の場や記者会見で罵詈雑言を吐く、傲慢な為政者がいました。当時は途中で辞任する大臣たちが多数いました。同じようなことが起きていると感じます。当時の影響がまだ残っているのでしょうか。
新型コロナが急拡大しています。少しばかり暗い気持ちになります。国の先行きも心配になります。
罪を天に獲(う)れば、禱る所無し
悪い習慣づけが続くと、溌剌(はつらつ)とした元気がなくなってしまうと渋沢栄一はいいます。
社会は毎日毎月、進歩するのに対して、世間はそうはいかない。
年月が経つ間に、マイナス面が出てきてしまい、長所が短所となり、利益が害悪になることから逃れないのだ。(引用:「論語と算盤」渋沢栄一 P112)
「戦国時代に六つあった国は、秦によって滅ぼされたのではない。自ら滅びる原因を作って滅びたのだ」という中国の格言を紹介し、悪い習慣が慣習となって染み付く危険性を指摘しています。
この国は大丈夫なのでしょうか。
「罪を天に獲(う)れば、禱る所無し」
「天に背いて罪を犯してしまえば、いくら祈っでも無駄だ」と栄一はいい、自分の行ないがお天道さまに恥じないか否かをいつも考えているといいます。
さらに自分ひとりならそれもよいかもしれないが、一般の大衆はそうはいかない、やはり一般的な宗教(道徳)が必要になってくるのだろうといいます。
ところが今日の状態は、天下の人々の心が一つになるようなことはなく、宗教もまた形式的になってしまった。(中略)これでは民衆を導くこともできない。何とかしなければならない事態だと思う。(引用:「論語と算盤」渋沢栄一 P114)
その栄一は「儒教(論語)」を信じて、これを言葉や行動の規範にしているといいます。
謝罪と言い訳
「小人の過つや、必ず文(かざ)る」(「子張第十九」8)との孔子の弟子 子夏の言葉があります。
「小人 知識人は過失があると、必ず言い訳をする」との意味です。
過ちを犯したときの謝罪で、その人の考えがわかるのかもしれません。辞任した人の中には言い訳と受け取られてしまった人もいるようです。
(↓ 過去辞任された方をまとめた記事です)
「直(なお)きを挙げて諸(これ)を枉 (まが)れるに錯(お)けば、能(よ)く枉れる者をして直から使(し)む」(「顔淵第十二」22)
夏王朝の暴君「桀」を倒し天子となった湯王は、賢臣伊尹(いいん)などを用い、善政を行ったいいます。伊尹が湯王によって抜擢されたことで、仁人 人格者でない者たちは遠ざかっていったといいます。
人心が刷新され、賢者が抜擢されれば、世間も変わるのでしょうか。
一日を新たな気持ちで
湯王は、自分の顔を洗うたらいに「一日を新たな気持ちで、日々を新たな気持ちで、また一日を新たな気持ちで」と刻み込んでいたそうです。
栄一はこの言葉を使って、「一日を新たな気持ちで」という心がけが肝心なのだといいます。
いよいよ今日、東京オリンピックが開幕します。上手に進行していくことを祈るばかりです。
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「参考文献」