「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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4度目の緊急事態宣言と無観客のオリンピック【怒りを遷さず、過ちを弐びせず】~論語と算盤 #7

 

 東京オリンピックの開幕まで2週間を切り、ようやく観客数が決まったようです。東京、神奈川、千葉の会場では「無観客」となり、北海道、福島の会場も「無観客」に変更となりました。現実的な解のような気がしますが、一方では地元飲食店からは落胆の声が聞こえます。

 時短命令は違憲、違法だとして東京都を訴えた飲食大手の「グローバルダイニング社」が4度の宣言下でも要請や命令があっても応じない姿勢だといいます。

 何がに正解で何が間違いなのか、よくわかりません。何を目的にするのかで、正否の答えは異なるのでしょうか。東京オリンピックの開催是非の議論も根は同じなのかもしれません。もし中止との判断があれば、足下の感染拡大はなかったのかと考えてしまいます。

 歴史に「if」はない。「たられば」は禁物なのでしょう。 

 

 

「成果をあせっては大局を観ることを忘れ、目先の出来事にこだわってはわずかな成功に満足してしまうかと思えば、それほどでもない失敗に落胆する。こんな者が多いのだ」と、渋沢栄一は「論語と算盤」でいっています。 

 社会での現場経験を軽視したり、現実の問題を読み誤るのは、このためとし「もともと人情には、こんな陥りがちな欠点がある」といいます。

円すぎる性格が、躓きのもと

  栄一は、絶対に争いをしない人間であるかのように見られていたといいます。

「もちろん、好んで他人と争うことはしないが、まったく争いをしないという訳ではない。正しい道をあくまでも進んで行こうとすれば、争いを避けることは絶対にできないものなのだ」といいます。

何があっても争いを避けて世の中を渡うとすれば、善が悪に負けてしまうことになり、正義が行われないようになってしまう。

わたしはつまらない人間だが、正しい道に立っているのに悪と争わず、道を譲ってしまうほど、円満で不甲斐ない人間ではないつもりである。人間はいかに人格が円満でも、どこかに角がなければならない。あまり円いとかえって転びやすくなる。  (引用:「論語と算盤」 渋沢栄一 P56) 

 

 過ぎたるは猶及ばざるが如し

「過」も「不及」も同格であって、中庸を失っている点では、どちらも良くないという意味です。 

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 あまり円満過ぎると、人としてまったく品性がなくなってしまうと栄一は言います。

 君子は信ぜられて、而る後に其の民を労す

 栄一がフランスから帰国し、大蔵省に出仕、総務局長を務めていたころの実話を事例に説明しています。

 大蔵省の出納制度の改革を行ない、欧州式の簿記を採用すると、伝票制度にミスがあったと、栄一が担当者に注意を与えたことがあったそうです。

 するとその担当者は栄一に理屈にもならない言葉に加え、暴言まで並べて食って掛かり、仕舞いには暴力に訴えようとしたというのです。

 栄一は当人さえ過ちを認め、反省すれば、そのままにいておくと考えたようですが、省内の人間が憤慨して、この件を上長に報告し、その上長も放っておくわけにはいかず、その男を免職してしまったといいます。

君子は信ぜられて、而(しか)る後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば、則ち以て己を厲(やま)すと為す」(「子張第十九」10)という子夏の言葉を「論語」にあります。

君子 教養人は、人々の信頼を得た後で、人々に働いてもらうようにする。人々からまだ信頼を得ていなければ、自分たちをつらいめにあわしていると思われるとの意味です。

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 栄一の改革も正しかったのでしょうけれども、まだ皆から信頼を得る前の早すぎた改革だったのでしょうか。

 オリンピックの問題や「グローバルダイニング」の問題などコロナ禍で起こる様々なことも 、根っこは同じなのかもしれません。

 グローバルダイニングが起こした訴訟の判決か気がかりです。裁判所の合理的な判断はどうなるのでしょうか。

 

 

論語の教え

唯仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む」(「里仁第四」3)とあります。

 孔子は、他人の悪を言い立てる人間、下にいながら上を誹る人間、勇気はあるが礼儀をわきまえない者、自己主張の強すぎる人間を憎むといいます(陽貨第十七」21)。

孔子は好悪の情を抑圧せよとはいわない。

むしろ好悪の情の存在を肯定し、これを鍛錬することが道徳なのではないか。そして人間についての真の正しい理論を体得した者のみが寸毫(すんごう)もあやまつところのない好悪を実践しうるのではないか。(出所:論語 桑原武夫

 真に健全な自由人は、自分の感情や行動に抑制を加えない、仁者とは、そうした至高の境地に達した人をいうと桑原は解釈する。

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 仁者は人間を愛する情が深いだけに、人間をにくむことも激しいのである。

不正に怒る情念がなくて、どうして正義を守りえよう。ただその怒りはいかに正当、強烈であっても、仁の枠内にあって、理性のコントロールの下になければならない桑原武夫はいいます。

 孔子の弟子に顔回と人がいました。

孔子は彼のことを

学を好めり。怒りを遷(うつ)さず、過ちを弐(ふたた)びせず」といいます。

「学問好きで、怒りにかられることがなく、八つ当たりもせず、過ちを繰り返すことはなかった」との意味で、顔回はそうした性格を孔子は愛していたようです。

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 ここでいう「学」とは知識の蓄積の意ではなく、道徳の実践を意味しているそうです。

 この時代、顔回のような素養が求められているのかもしれません。

 このコロナ渦、栄一なら、今ある諸問題をどう切り盛りするのでしょうか。

 

「関連文書」

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「参考文献」