「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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【不安と経済】中庸を求める候補者、その中庸とは ~炉辺閑話 #32

 

 また一人、自民党の総裁選に立候補を表明した。その人は、物価目標2%について、「インフレ率というのは経済成長の結果からくるもの」とし、「こういう状況の中で達成できるかというと、そこはかなり厳しいものがあるのではないか」と、述べたという。現実的な見方をしているのではなかろうか。

河野行革相が総裁選出馬表明、2%目標達成「かなり厳しい」 - Bloomberg

 河野太郎氏が立候補を表明した。会見の冒頭、「皆さんの思いや不安を受けとめ、情報を共有し、しっかりとしたメッセージを出し、皆さんと一緒に直面する危機を乗り越えていかなければならない」、「人が人に寄り添うぬくもりのある社会を作っていきたい」と述べた。

 

 

今、日本は新型コロナウイルス感染症と気候変動という大きな危機に直面しています。

私たちは、国民の想いや不安を受けとめ、情報を共有し、しっかりとメッセージを発信しながら、みんなでこの直面する危機を乗り越えて、日本を前に進めなければなりません。(引用:河野太郎公式ページ

 今、目の前にある危機を直視し、そこから抜け出るための現実的な方法を採用する、それが今求められているのだろう。

 従来のまま経済だけに頭が染まっていたら、空虚な理想論しか生まれない。現実社会は、連続した毎日の中にある。物価目標2%も設定したときには必要なことだったのだろうが、8年もの時間が経過すれば、当然見直されるべきなのだろう。

廏 焚けたり。子 朝より退く。曰わく、人を傷つけたるか

「廏(うまや)焚(や)けたり。子 朝(ちょう)より退く。曰わく、人を傷つけたるか、と。馬を問わざりき」と、論語「郷党第十」11 にある。

孔子が政庁より帰ってきたとき、厩舎が焼けていた。すると孔子はそこにいる馬のことは聞かず、「だれか怪我はしなかったか」と尋ねた」という。

 馬がどうでもいいというわけではないが、人間と動物の間に一線を画し、まず人間を尊重する孔子の考えのあらわれと解釈される。

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 経済も人によって営まれる。人とその暮らしがあって経済は成立する。まず、人の心が優先されて然るべきではなかろうか。

 

 

中庸

「度量の広い、中庸な、そして温かいものが保守主義だ」と河野氏は主張し、「平等な機会が提供され、努力した者、汗をかいた者が報われる社会、勝者が称えられ、敗者には再び挑戦する機会が与えられ、そして平等に競争に参加できない者をしっかりと支える国家を目指す」という。

 経済ばかを優先し、そこから危機が生まれ、社会に歪が生じたなら、それを正していくことも必要ということなのだろうか。

中庸の徳為る、其れ至れるかな。民 鮮(すく)なきこと久し

河野氏が指摘した「中庸」を、孔子は、「雍也第六」29 で触れている。

「道徳における中庸の位置は、この上ないものだ。しかし、人々は中庸を欠いて久しい」という。

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「中」とは、偏らず、過ぎたると及ばざるとのないこと。

「庸」は、平常、あたりまえで変わらないこと。

 社会において突出するような行為をきらって、庸徳庸行を尊ぶ。

 この「中庸の徳」は、東洋、西洋の区別なく倫理学の主要な概念の一つと言われる。アリストテレス倫理学でも、徳の中心におかれ、「過大」と「過小」の両極端を悪徳とする。徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるという。

 

 

寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち民任じ

孔子は、「寛(かん)なれば則(すなわ)ち衆を得、信なれば則ち民任じ。敏なれば則ち功有り、公なれば則ち説(よろこ)ぶ」と、「堯曰第二十」1 でいう。

 殷王朝の最後の王 暴君「紂」を倒した周国の武王の政治を述懐し、その後、民の心は周王朝に向かったといい、「統治が寛大であれば、人々の支持を得、言行一致であれば、人々は信頼し、処理が敏速であれば実績が上り、公平であれば、喜ぶのである」という。

 それまでの悪習を断ち切れば、新たなものも生まれ、それが適正であれば、不安が解消されていくということなのかもしれない。

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 経済指標が芳しくないといっては、景気刺激策を打って多量な資金を市場に流し込む。一時的な数値の改善はあっても、安定的な改善につながらず、またどんどん資金を投ずる。しかし、一向に必要なところにお金は回らずに、どこかに滞り、みるみるうちに国の借金ばかりふくれ上がる。だが、その負担だけは公平さが求められる。これを悪循環と呼ばずして何を悪循環と呼ぶのだろうか。不安の根源がここにあるのかもしれない。

 その悪循環を断ち切る勇気が求められている。しかし、誰も挑戦しようとせず、相も変わらずに経済、経済と繰り返す。経済を目的、目標にせず、手段にすべきときなのだろう。

 こうした陥りやすい過ちがあるから、孔子アリストテレスが「中庸」を説くのかもしれない。経済指標ばかりに囚われ、その高低を論ずるのではなく、もう少し人に寄り添ってもいいのかもしれない。

  あと1週間もすれば正式に告示となり、本格的な論戦も始まるのだろう。そうすれば、候補者各々の主張ももう少しはっきりしてくる。

 今ある危機に、様々なに危機が加わり、不安が不安を助長する。不安に強がりばかりで対処するのではなく、もう少し包摂的に寛(ひろ)い心もあっていいのではなかろうか。