過労で入院されていた小池都知事が公務に復帰、記者会見されたといいます。
東京新聞によると、この日の会見は当初、中止の予定だったといいます。普段着席せず、立ったまま会見を行う小池知事がその日は着席していました。
時折せき込む場面も。
「都にとって今ほど重要な時期はない。どこかでバタッと倒れるかもしれないが、それも本望だと思ってやり抜く」。
この言葉が話題のようです。
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり
「論語」の「里仁第四」8の言葉を思い出します。
「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。
この章は現代語訳をするよりも、原文そのままに訓(よ)むほうが胸に響くと加地伸行氏はいいます。
「道」、人の世の真実、人間として大切なもの、生きることの意味、あるいは死への覚悟。
目の前に山積する問題が解決するのなら、死んでも構わない、そんな風に小池知事が言われているようにも感じます。
古注では、道を「有道」として、道徳の支配する理想社会が実現したと聞いたなら、自分はすぐに死んでも心残りはないと解します。一方、新注では、「道」を「事物当然の理」と捉えます。それは物事としてそうあらねばならぬ道理ということであり、もっぱら理性をもって認識しうるところの真理といった語感があると桑原武夫は言います。
新型コロナも収束することが、理の当然であって、早期に収束への道筋が見つける、それが道理であって、それができるなら...... それを市井の中に見いだすことができるなら。長くその問題解決の先頭を歩んでいれば、そう覚悟するのも理解できます。
少々胡散臭く聞こえてますが、強い覚悟がないとなかなかそう表現できないように思います。
邦に道有れば、則ち知、邦に道無ければ、則ち愚
「甯武士(ねいぶし)は、邦に道有れば、則ち知、邦に道無ければ、則ち愚。其の知は及ぶ可(べ)きも、其の愚は及ぶ可からざるなり」(「公冶長第五」21)との言葉をあります。
「邦に道義が支配しているときに、知恵を働かして善政を施くのにももちろん努力がいるが、それはまだしも困難ではない。
ところが邦から道義が消え去ったときに、いたずらに正義派ぶったり賢者顔をしたりして我が身を滅ぼすことによって、邦をいっそう衰えさせるのではなく、むしろ愚者の面をして誠意を秘めつつ空とぼけをして、邦を守るほうがずっとむつかしいのである」 (引用:「論語」桑原武夫)
小池知事も、時には甯武士のように「愚」を演じてみるのもいいのかもしれません。ただ知事の立場にあるとなかなかそうできないのでしょうか。
いずれにせよ、無理なさならないでくださいとお声がけしたいと感じる一場面でした。
「赤木ファイル」がまだごたごたしているようです。
また、どこかの政治家たちがおかしな発言をしているようです。記者会見でとぼけたり、ツイッターでいまだに釈明を続ける人もいるようです。
甯武士のような賢さはあるのでしょうか。それとも単なる.......
「小人なるかな、樊須(はんす)や。上(かみ)礼を好めば、則ち民は敢(あ)えて敬せざること莫(な)し。上 義を好めば、則ち民は敢えて服せざる莫し(「子路第十三」4)」。
「小人なるかな、樊須(はんす)や」、つい出てしまった孔子の本音なのでしょうか。
思わず、どこぞの為政者にもそう声をかけたいと思ってしまいます。
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」、 故赤木俊夫氏も覚悟をもってファイルをまとめていたのでしょうか。
人の気持ちを斟酌できる為政者が求められています。