子曰わく、甯武士(ねいぶし)は邦に道有れば、則ち知、邦に道無ければ、則ち愚。其の知は及ぶ可(べ)きも、其の愚は及ぶ可からざるなり。(「公冶長第五」21)
(解説)
「孔子の批評。甯武士は、国がきちんと治まっていたときは、賢者として働く。逆に乱れたときは、呆けて過ごして、身を全うした。彼の賢者ぶりは誰でもまねることはできるかが、その呆けぶりは、なみの者ではなかなか。」(論語 加地伸行)
「甯武士」、甯兪(ねいゆ)が実名。武は諡(おくりな)。紀元前632年頃から623年頃まで活躍した衛の国の政治家。大国の間に介在する小国の政治責任者として、国を守るのに精根を尽くしたと桑原はいう。
「邦に道義が支配しているときに、知恵を働かして善政を施くのにももちろん努力がいるが、それはまだしも困難ではない。ところが邦から道義が消え去ったときに、いたずらに正義派ぶったり賢者顔をしたりして我が身を滅ぼすことによって、邦をいっそう衰えさせるのではなく、むしろ愚者の面をして誠意を秘めつつ空とぼけをして、邦を守るほうがずっとむつかしいのである」、甯武士はこの二つを兼ね備えていた。それを孔子が評価したと桑原は読む。
さらに、桑原は吉川氏の説を使い解説する。「甯武士が国使として魯の朝廷を訪れたとき、主人側が規格外れの音楽を演奏したところ、彼はそっぽを向いていた。それを注意されて、今のはリハーサルかと思った、ととぼけて相手を咎めず、その場を繕ったという逸話をあげて、孔子の評言はこれを踏まえたのではないか」
桑原は「日本は単一民族の封鎖安定社会だったので、政治の厳しさは中国ほどでなかったためか、直線型の知者は多いが、洞察と空とぼけの両面作戦のできた手練者は少なかったのでないか。日本人は「論語」を読んでも、「夕に死すとも可なり」などというところにだけ注意力を集中し、甯武士的存在を尊敬することを怠ったのではなかろうか。私は彼に匹敵する人物は誰かと考えるのだが、前田利長ぐらいしか思いつかない」という。
なかなか面白い解説である。「論語」は道徳の手本であるが、人間として生きる知恵も授けてくれるということか。渋沢栄一は、「論語」とビジネスを説いた。
(参考文献)