「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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【習慣を上手に利用する】コロナ渦を怒らずにやり過ごす知恵 ~論語と算盤 #10

 

 いよいよオリンピックが間近に迫ってきた。それなのに、新型コロナの再拡大に歯止めがかからない。

 コロナ慣れなのだろうか。そんな習慣が身についたことで、コロナ渦からなかなか抜け出ることができないでいるのかもしれない。

 感染拡大すると制限措置が発動され、下降へと転ずる。下降したかと思えば、それが定着すること無く、再び上昇に転じ、また制限措置の発動になる。

 もうそんなことを1年以上続けている。

 

  習慣とは、人の普段からの振舞いが積み重なって、身に染み付いたものだと、渋沢栄一は「論語と算盤」の中で、そういいます。

習慣はただ一人の身体だけに染み付いているものではない。他人にも感染する。ややもすれば人は、他人の習慣を真似したがったりもする。

この感染する力というものは、たんによい習慣ばかりでなく、悪い習慣についても当てはまる。 (引用:「論語と算盤」渋沢栄一 P73)

 習慣は、他人ばかりでなく、自分の心にも影響を及ぼしていくと栄一はいいます。

 悪い習慣を多く持つようになると悪人になり、良い習慣を多く身につけると善人になるというように、最終的にはその人の人格にも関係するといいます。普段から良い習慣を身につけることは、人として社会で生きていくために大切なことと諭しています。

「コロナ慣れ」とは一体何なのでしょうか。良い習慣なのでしょうか、それとも悪しき習慣なのでしょうか。 

 

論語の教え

性 相(あい)近し。習い相遠し」(「陽貨第十七」2)との言葉があります

 人間の生まれつきの性質は大差がないが、習慣や受けた教育によって違いが大きくなるとの意味です。  

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 人が生まれ持っているのは本能であって、それには差がない。その後の学習によって差が生じるということなのでしょうか。そこには他者から影響を受けた習慣を含めてもよいのかもしれません。

 この章は、さらに、「上知(じょうち)と下愚(げぐ)とは移らず」と続きます。

 賢明な人は、悪い境遇や環境に左右され堕落することがなく、一方、愚かな者は、どんなに良い境遇や環境のもとにおかれても賢者にはなれないとの意味です。

 

甯武士(ねいぶし)は邦に道有れば、則ち知、邦に道無ければ、則ち愚。其の知は及ぶ可(べ)きも、其の愚は及ぶ可からざるなり」(「公冶長第五」21)との言葉があります。 

「邦に道義が支配しているときに、知恵を働かして善政を施くのにももちろん努力がいるが、それはまだしも困難ではない。ところが邦から道義が消え去ったときに、いたずらに正義派ぶったり賢者顔をしたりして我が身を滅ぼすことによって、邦をいっそう衰えさせるのではなく、むしろ愚者の面をして誠意を秘めつつ空とぼけをして、邦を守るほうがずっとむつかしいのである」、甯武士はこの二つを兼ね備えていた。 (引用:「論語桑原武夫

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 「甯武士」、甯兪(ねいゆ)が実名。武は諡(おくりな)。紀元前632年頃から623年頃まで活躍した衛の国の政治家。大国の間に介在する小国の政治責任者として、国を守るのに精根を尽くした。

  色いろと問題が顕在化するコロナ渦。にわか賢者が増えているような気がします。ここは、その悪影響に惑わされることなく、甯武士のように空とぼけ、なりゆきを見守りつつ、行動した方が賢明なのかもしれません。

 憤りを感ずるようなことが多々おきますが、それに腹を立てず、怒らず、反発せず、ということなのでしょうか。

 感情を浪費するばかりで、もしかしたら反発することがいつしか習慣になったりするのかもしれません。それこそ、悪影響なのではないでしょうか。

 

 栄一は自身の半生を振り返り、青年時代、天下を流浪し、気ままに生活していたと後悔の念を持っていたようです。しかし、その悪習がなかなか治らず苦労したといいます。

「悪いと知りながら改められないのは、自分に打ち克とうとする心が足りない」と、栄一は自身の経験から、そういいます。

 尊王攘夷の志士だった栄一がどん詰まり、幕府直参に転じ、攘夷どころか、フランスに渡り、髷を落とし、刀も外し、洋服を着る。習慣に縛られていては、こうした変化も何もなかったということなのでしょう。

 習慣を変えることで、運命もまた変えることができるということなのでしょうか。

 

「関連文書」

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