子、南容を謂う。邦に道有るとき、廃せられず。邦に道無きときも、刑戮(けいりく)に免(まぬか)る、と。其の兄の子を以て、之に妻(めあ)わす。(「公冶長第五」2)
(解説)
「孔子は南容についてこうおっしゃられた。国政が安定しているとき、責任ある仕事についており、国政が乱れているとき、責任を問われ罪を得るようなことはなかった。兄の子を南容に嫁がせた。」(論語 加地伸行)
「南容」、姓は南宮、名は括、字名が子容。孔子の門弟の一人と言われる。
桑原は、「文明諸国でも最近まで、未開地域では現在もなお、そうであるように、女子の配偶者に選択において自由意志を認められず、もっぱら父兄の意志によってめあわされた。それだけに父兄たるものは慎重な考慮を要請されたわけだが、孔子は前章とこの章とにおいて、二つの婿えらびをしている。いずれもおそらく適切な処置であったのだろうが、外面的に見ればまったく対立した選択のようにみえ、そこに面白さがある」と解説する。
桑原は仁斎とともに、孔子が自分の人物鑑識眼に自信をもっていて、それぞれの人物に対して適切な対応をした、その自由思考の無限といってよい幅の広さに感服するだけだという。
孔子は、肉親を嫁がすべき人物像を前章と合わせて、明らかにしようとしたのだろうか。卓越した才能の持ち主というよりは、文章からは、公冶長、南容とも実直な性格のようにとれる。
南容は「憲問第十四」5にも登場する。
(参考文献)