東京オリンピックが開幕しました。この大会の始まりがポストコロナの始まりであればよかったのでしょうけれども、その願いは叶いそうにありません。
そんなご時勢にド派手な開会式は見合わないのかもしれません。
歌舞伎十八番の「暫(しばらく)」
開会式後半には、歌舞伎の市川海老蔵さんが登場、十八番「暫(しばらく)」を演じ、「見得」切ったといいます。「暫」の主人公は、鎌倉権五郎景政で、悪党どもが善良な男女を打ち首にしようとするときに、「暫く~」との声とともに、颯爽と現われて助けるというのがストーリーのようです。コロナウイルス退散との思い込めての「見得」だったのでしょうか。
ひかえめ
海外メディアは「ひかえめなセレモニー」と評し、英BBCが、「リオ五輪のようなカーニバルも、ロンドン五輪のようにスカイダイビングする女王もいなく、世界が最大の試練に立ち向かうなかで開かれる大会だと思い知らされた」と報じたといいます。
「この大会はマスク着用やコロナの陽性検査、そして無観客などこれまでとは異なるが、オリンピックが世界最大のショーであることに変わりはない」と指摘した。 (出所:日本経済新聞)
楽しみて淫せず、哀しみて傷らず
「関雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」(「八佾第三」20)との言葉が論語にあります。
関雎という音楽は、楽しくはあるが過度にはならない、哀しくはなるが心をひき裂くまでにはならないとの意味です。楽しみと悲しみは人間に避けられないものであって、これと絶縁しようなどと考えるのは人間の本性にもとることになる。この音楽は哀楽を生かしつつ節度を守り、その表現は中和を得ているというように解します。
江戸期の儒学者伊藤仁斎は、「こうした音楽は聞く者の心のけがれを洗い流し、かすを融かしきって、正しい人間性に到達させる、これがもっとも美しい音楽だ」といいます。
今回の開会式もそのような感じた人もいたのではないでしょうか。
礼節を守る
「君子は争う所無し。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうが)し、而(しか)して飲む。その争いや君子なり」(「八佾第三」7)との言葉があります。
君子 教養人は角突き合わせて競争するようなことはしない。競り合いあるとなれば、強いて言えば射の試合のときぐらいか。しかし、射礼というものがあり、射場となる堂となる庭との間を二人ずつ並んで出るとき、礼儀を守って昇り降りし、負けた方が罰杯の酒を飲む。その試合は優雅に楽しむのが目的であるとの意味です。
孔子が生きた古代から、オリンピック精神に近いものがあったということなのでしょうか。
今日からは競技も本格的に始まります。このご時勢、優雅とはならないかもしれませんが、礼節を守って楽しむのも悪くはないのかもしれません。
「暫」を演じた海老蔵さんは、「コロナ禍でのオリンピックパラリンピック。今は色々な問題があるとは思いますが10年後50年後100年後に何かの意味を持つ大会になる事を願い舞台に立ちました。ありがとうございました」とブログに記しています。
この17日間が何か意味あるものになればいいのかもしれません。
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