日本ばかりでなく、世界の企業も脱炭素に向けカーボンニュートラル目標を公表しています。英豪系の資源大手のリオ・ティントも、二酸化炭素の排出量を2030年までに半減させる計画を発表したといいます。従来の目標の3倍の削減になるそうです。
Rio Tinto announces bold $7.5 bln spend to halve carbon emissions by 2030; shares fall | Reuters
ただこの発表によって、ロンドンでの株価は3.1%下落したといいます。
「鉄鉱石事業が困難に見えるこの時期に、より多くの支出を増やすこの移行は、より複雑化する」とみられたようで、「正しい戦略ではあるが、株価に反映されるにはかなり時間がかかる可能性がある」と評価されているといいます。
一方、国内の資源開発会社INPEXは、脱炭素の必要性は認めつつも、足下の株価が気になるばかりに脱炭素への投資を躊躇っているといいます(参考:日本経済新聞)。
リオ・ティントとの差を感じてしまいます。結果が出れば、いずれ株価は回復する。どれだけ早く脱炭素を実行できるかと、リオ・ティントは考えるのでしょうか。
論語の教え
「好きこそ物の上手なれ」というほどで、人も道を好むようになりさえすれば、自づと道に向つて進み、道を実地に行うようになるものである」と渋沢栄一は言います。
「之を知る者は、之を好む者に如(し)からず。之を好む者は、之を楽しむ者に如からず」と、「雍也第六」20 にあります。
しかし、好むというだけではまだまだ至らぬところがあつて、道を行うに当り、苦痛を覚え、中途で少し難しくなって来でもすれば、その苦痛に堪え難くなって、道を行う事をやめてしまふ恐れがあるものだ。ただ衷心(ちゅうしん)より道を楽む者のみが、如何なる苦痛をも苦痛とせず、如何なる困難をも忍び、敢然として道に進み道を実行してもゆけるのである。 (参考:「実験論語処世談」 渋沢栄一記念財団)
さらに栄一は、「釈迦が六年間の難行苦行を積んだとか、又、孔夫子が陳蔡の野に苦しめられ給うたとかいうのは、一に道を楽んでいたからできた事で、古来の発明家、事業家などもみなその道を楽む事によつて成功して居る」といいます。
「好きこそ物の上手なれ」、欧米の企業も当然株価のことは気にするのでしょうが、案外、困難な目標であっても、その達成のためのプロセスを楽しんでいるのかもしれません。所詮、株価は結果に対する評価なのですから。
「2025年にもなれば、少し状況が変わる」というのは、ユーグレナ社の出雲社長。
学校でSDGsや気候変動のことを学んだ若者たちが社会進出してくるからといいます。ものごとの優先順位が変わるのかもしれません。
楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず
栄一が、若い人への孔子の教えを紹介しています。
「関雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」と、「八佾第三」20 にあります。
「人の悪を疾んでもなお、その好きを知るほどの節度ある人物にならねばならない」。
そして、それと同時に、「節度を守ってばかりで薄情となり、冷淡となり、残酷に流れるような事があつてはならない」と、栄一も忠告します。
世の中と申すものは、決して理智ばかりで渡れるものでは無い。そこに温かい人情がなければならぬものである。
節度を守るに就ても矢張又、中庸を得るのが大切である。節度を守る事も余り極端になつてしまへば、楽んで淫し哀んで傷れるのと大した差が無いことになる。ここが実際に臨み身を処するに当つて却々六ケ(むずか)しいところである。 (参考:「実験論語処世談」 渋沢栄一記念財団)
進歩は大いに望むが善悪を鑑別せよ
「同じ真直ぐな道ならばその一路を辿るのが進歩であるけれども、しかし、それが間違っていた場合は、右の途を左に替へることは決して止まるのでなく、進歩だ」と栄一はいいます。
これが正しいとされることに対し、異なった意見をいうと異端扱いになったりして、邪道と評価されることがあります。しかし、それが後になって正道になることもあるものです。
「論語」も、江戸期の漢学者には、世事とは没交渉なものとされていましたが、栄一はそうではなく、道徳と生産殖利とは一致していると主張し、それが今日、「論語と算盤」として評価を受けるようになっています。
気候変動のことも脱炭素も、それが絶対的に正しいこととなるのには、もう少し時間がかかるのかもしれません。
栄一の時代も欧米から個人主義が輸入され、それを危惧した栄一は「私もものの進歩を望むものであるが、説の善悪を能く鑑別するの必要であることを、特に海外思潮の流入の盛んとなりつつある現代の人々に注意したいと思う」といっていたようです。
今また、様々な情報が欧米だけでなく諸外国から流入しています。脱炭素の最新動向や脱株主第一主義にステークホルダー資本主義など様々です。時代の変化により、正邪もまた変わるものなのでがないでしょうか。その善悪を見極め、今求められている正しいものを選択できるようになりたいものです。