「日本は何をやっても批判される」。
環境省の官僚が、英国グラスゴーで開催されたCOP26 第26回国連気候変動枠組み条約締約国会議を振り返り、そうため息を漏らしているそうだ。
急遽この会合に参加、スピーチだけの岸田首相は、及び腰と評された。その上、国際NGOからは「化石賞」まで頂くことになった。
日本は石炭火力の燃料をアンモニアに転換して排出ゼロをめざすと訴えた。今ある設備を「座礁資産」にせず脱炭素を実現する現実解とみている。
それも「化石燃料を延命する戦略」と受け止められた。世界の当面の目標である2030年時点の排出削減にはほとんど寄与しないためだ。(出所:日本経済新聞)
地球温暖化防止という国際課題に対して、排出大国として応分の責任と貢献が求められる中、自己主張すれば批判されるの当然なのかもしれない。
他人の利益か、自分の利益か
「利に放(よ)りて行えば、怨み多し」(「里仁第四」12)という。
自分の利益のみを目安にして行動すれば、怨恨を世間より受けるようになると、渋沢栄一はいう。
会合での論点を外して、自分ができることだけを主張するからよくないのかもしれない。
さればといって、他人の利益をのみ目安にして行動すれば、自分を亡くしてしまう。よって、多少他人が困るような行動に出でねばならない場合には、その行動が果して道理に合っているか否かをまず考えるべきだと、栄一はいう。
アンモニアはまだコスト高で、ビジネスとして成り立つかどうかさえわからない。それを使えば、座礁資産は減るかもしれないが、温室効果ガスを早期に抑制することには役立たたない。会議の趣旨とは一致していなかったのかもしれない。
東洋的な主張か
「願くは善を伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん」との言葉を論語にある。
「善を誇らず、労を他に転嫁せぬ」という意味で、栄一は、この考えは東洋的だという。
一方、「自分の善を他人の前に吹聴して誇りたがったり、自分の責任を成るべく他人にナスリつけたがったりする」のが西洋的と指摘する。
しかるに東洋、ことさらに日本では陰徳を徳の上々なるものとし、自分の責任を自分で負うのみか、他人の責任までも引受けてこれを負ふことを武士道の粋であるとしている。(参考:「実験論語処世談」 渋沢栄一記念財団)
COP26での日本の対応は、栄一がいうように随分と東洋的だったのかもしれない。
論語の教え
「勇を好むも貧を疾(にく)めば、乱る。人にして不仁なる、之を疾むこと已甚(はなは)だしきときは、乱る」と、「泰伯第八」10 にある。
「人の寛容度量の小さいのは遂に乱を作すにいたるということを戒めている」と、栄一はこの章の意味を解説する。
「勇気を鼓舞することは必要であって、人として為すべきことは充分にこれを為してその任務を尽すべきであるが、分不相応のこと迄も望んで世の秩序を乱すようなことがあってはならない」と栄一はいう。さらに、「世間往々にして見受けるが如き、自分はその責任を充分に果しもせずして、只声を高くして権利呼ばはりをする如きは、この類であって、賛成し兼ねる」という。
日本政府は、COP26に東洋的な考えで挑んだのかもしれないが、肝心なところで踏み外していたのではなかろうか。できることに固執し過ぎて、それを権利主張とみなされて、誤解を生んだのであろう。もう少し西洋的に「善」を強めに主張しておくべきだったのかもしれない。
「(アンモニア燃料を巡って、)政府内でもいぶかしむ声がある政策を国際舞台で首相が発信するほかないこと自体が日本の現在地を示している」、と日本経済新聞は指摘する。
単に交渉能力がないだけのことだったのか、それとも準備不足で検討が不十分だったのであろうか。どちらにしても、気候変動への関心が薄く、優先順位が低かったということなのだろう。