衆院選が公示となり、これから本格的な論戦が始まっています。各党の公約を伝える報道が増え、主要争点がコロナ対策といいます。科学的知見、疫学的知見で対応すべきことが、選挙の争点であっていいのでしょうか。甚だ疑問を感じます。邪推をすれば、どの党も政権の取りのことしか考えていないということでしょうか。選挙後がとても心配になってしまいます。
「政治は人民のための政治で自己のための政治でない、自己の権力を濫用して、自己の利益を計る事は是れを政治と云ふ事は出来ぬ」と、渋沢栄一も存命のときには政治批判をしていたようです。
多数を占めさへすれば、実権を握り得て自分の意見を行へると言ふ様な観念は、現今の上下を通じて一般に懐く所のものである。成程現今は多数政治であるから、多数を占めさへすれば自分の無理も通らう。
従つて善政を施さうとすれば出来得べき筈である。
それにもかかはらず現実の状態は之れを裏切つてゐるらしく吾々の眼に映ずる。是れは民衆のための政治ではなく自己のための政治である。広く民に施して而して民を救ふを仁と言ふ可きなりと云ふ孔子の教から言ふと、斯る事は出来得る筈はない。(引用:実験論語処世談 渋沢栄一記念財団)
「孔子が、かつて実際の政治に近づかうとしたのは、全然是れと趣きを異にする」と栄一はいいます。
そして、「孔子の思想の根本は人類の幸福増進が目的で、今の言葉で云へば、博愛がその根本で有つたから、是れを徹底的に達成せしむるには、政治に依らねばならぬと云ふのが、孔子の生粋で有つたのである」といいます。
さて、今の為政者に、どれだけ「人類の幸福増進」という目的を持つ者がいるのでしょうか。
論語の教え
「棘子成(きょくしせい)曰わく、君子は質なるのみ。何ぞ文を以て為さん、と。
子貢曰わく、惜しいかな、夫子の君子を説くや、駟(し)も舌に及ばず。文は猶 質のごとく、質は猶 文のごとし。虎豹(こひょう)の鞟(かく)は猶 犬羊(けんよう)の鞟のごとし」と、「顔淵第十二」8 にあります。
棘子成は衛の大夫であったが、君子は質実の徳があれば宜しい、外飾の文は無用であると説いたという。これは当時の民が文にはしってばかりいるの見て、そういったといいいます。
ところがこれを聞いた孔子の弟子子貢は、一度間違って口外したことは駟馬を以てこれを追うとも及ばない、かつ、子成の間違いを正して、こう反論した。すなわち、文質兼ね備ってこそ始めて君子であって、君子に文がなければならない事は、あたかも質がなければならないと等しく、また質がなければならない事は文がなければならないのと同様である。この間に軽重大小の差がない。されば、決して質のみを重んじて文を軽んじ、これを棄る可きでない。
たとえば皮は質であつて、毛は文である。しかし毛を去ってしまったならば、虎や豹の皮も犬や羊の皮と同じやうになつて見分けがつかなくなる。毛があつてこそ虎や豹の皮は珍重されるのである。しかし、その毛ばかりあっても駄目である。毛を支へる皮があるから、すなわち毛皮共にありて始めて虎豹の皮が価値あるのである。質と文とはあたかも毛皮の関係と同じやうなものであって、質があって文があり、文があって質がある。その一を欠くと価値がない。あたかも車の両輪の如きものである。されば文質は断じて大小軽重の差を設ける事の出来ぬものであつて、しかし一方に偏するやうな事があれば其所に弊害が伴う様になるものであると説かれたのであると、栄一は解説しています(参考:実験論語処世談 渋沢栄一記念財団)。
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各党首の主張を聞いても、政治の素人が聞くだけでは、どうも「文」ばかりで「質」がないように聞こえてしまいます。言行一致というか、知行合一に欠けるようにも感じてしまいます。
今日、政党にして、真に正しき考えや正しき知を以て之れを行わんことに心掛けたならば、日本の今日の政治は正しき政治が行われて居ねばならぬ筈である。
正しくないことによつて党の利益を図り、党利の為に正しくないことを行うことは、日本の政党界の現状ではないか。
すなわち党利の為にある利権を与え、そして正しくないことを行うのであるから、何時までも政党は正しきことを行うことが出来ないやうになる。
これは独り政治界は、こうであるばかりでなく、経済界にもある。政治に道徳が行われず、経済にも道徳が行われて居ない。即ち政治にも経済にも道徳が離れて居っては、政治も経済も順調に進んで行くものでないと思う。(参考:実験論語処世談 渋沢栄一記念財団)
どうやら栄一の時代からあまり変化がないようです。
このコロナ禍にしろ、気候変動の問題にしろ、大げさに言う気はないですが、生命が脅かされる事態のはずです。それなのに、一体何を論議しているのかなと感じてしまうのです。栄一ではないですが、真に正しき考えや正しき知をもって行って欲しいと思うばかりです。