「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

治安悪化なのか、また電車内で凶器をちらつかせる事件 ~ 炉辺閑話 #60

 

 また電車内で刃物らしきものをちらつかせる事件があったといいます。JIJI.COMによれば、東京の地下鉄東西線の車内で、男が突然千枚通しのような工具を見せ、近くに座っていた男女に詰め寄ったそうです。さいわい乗客にけがはなかったといいます。

 治安が悪化し、社会が殺伐としてきてないか心配になります。かつての安全な国日本が衰退していないでしょうか。

 こうした事件が頻発するようになり、鉄道やバス会社は車両内の巡回強化や防犯用品拡充といった対策を急いでいるそうです。また、東京五輪直前の7月には駅員が乗客の手荷物検査をできるよう省令を改正されていたそうですが、その実効性など乗客の安全確保に向けた課題は多いといいます。

鉄道各社、対策急ぐ 手荷物検査「非現実的」の声―京王線刺傷:時事ドットコム

「電車やバスに凶器を持ち込ませない対策には課題が多い」。

鉄道会社関係者は「利用客の利便性などを考えると継続的な(手荷物)検査は現実的に難しい」と指摘。バス会社の担当者も「乗務員は運転士1人しかおらず検査は厳しい」と対策の難しさに頭を抱える。(出所:JIJI.COM)

 ごく稀に発生する凶悪事件のために、多くの人々を疑うように監視が強化されていく。こうした処置で安心は担保できるのでしょうか。

 かつての日本は、なぜ、安全・安心の国だったのだろうかと考えてしまいます。

 

 

 凶悪事件が発生すれば、警察が出動し対応する。これが現在の当たり前で常識です。そしてそれは法によって成り立ち、政治によって司られています。

論語の教え

「政」は勧善を貴び、悪を懲らしめるのは末である、と渋沢栄一はいいます。それを顕しているのが次の章であるといいます。

季康子(きこうし)、孔子に問いて曰わく、如(も)し無道を殺して、以て有道を就(な)さば、何如、と。孔子対(こた)て曰わく、子 政を為すに、焉(いずく)んぞ殺(さつ)を用いん。子 善を欲すれば、民 善なり。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり草 之に風を上(くわ)うれば、必らず偃(ふ)す。(「顔淵第十二」19)

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 栄一によれば、季康子が政治を孔子に問い、善人は常に無道の人のために迫害されているから、無道の徒を殺して有道にすれば善いではないかと言ったといいます。

 ところが、孔子は、政を為すに何も「殺」を用いる必要はない。もし貴方にして善を好み善を行ったならば、民はこれに倣って善に就き悪を去らしめることが出来るであろう。丁度、君子の徳は風、小人の徳は草のようで、風吹かば草は必ず伏してこれに従うと云った。

 

 

 さらに栄一は次のように解説します。

位あるもの、勢力あるものは名誉と尊敬を受けている。従って責任もあり、義務もあるので、これを責むるに厳しくなければならない。

上に厳しく下に寛にする。世の中もまたこの通りである。

もし二人の間に争いが起った場合には、先輩すなわち上位のものが悪いと見なければならない。如何に人は平等でなければならないと云っても、上位のものは社会から受ける名誉、境遇が違うから、上位のものが責任や義務を負わないで下級に及ぼすべきものでない。

全ての者が平等であると云ったところで、水が平等であったら流れ行くところがなくなる。また上が清い水であれば下も清い水になる

末者に不徳があっても、長者に徳があれば末者は直ちに直すことが出来る。会社にしても役所にしても、また個人の家にしても同様である。(参考:「実験論語処世談」渋沢栄一記念財団

 凶悪事件も法を強化し、監視を強めれば、一定程度の抑制効果はあるのかもしれません。しかし、なぜ凶悪犯が増えてしまうのか、そこに切り込み、対策を打たなければ、いつまでも安心を得ることはできないのかもしれません。

 

 

青天を衝け

 渋沢栄一の生涯を描いた大河ドラマ「青天を衝け」を毎週楽しみに見ています。

 久々に徳川家康が登場しました。家康の江戸時代は総じていえば、大きな争いもなく平和で、安全安心な国だったのでしょうか。明治を描くドラマの方では、岩崎弥太郎と栄一との対立がいよいよ激しくなり、次の展開に進みそうです。また、栄一が社会的弱者支援のため尽力する養育院が描かれていました。栄一の家に住む書生と妻千代との会話では、暴徒が栄一の家を襲うかもしれないとの噂から家をどう守るべきと話が展開し、書生たちは文明開化の時代だ、警察を呼べばいいといいますが、千代は警察が来る間、家はどうなるのかと切り返す。現代社会に対する呼びかけでもあったのでしょうか。

 翻って現代、気候危機と言われるまで地球環境は悪化してしまい、コロナ禍などによって、様々な歪みがあらわになり、日常から安心というのが遠退いているようです。孔子や栄一のことばに従えば、君子がおれば、社会が善き方向に導かれていくのでしょうが、どうやら現代はそうした君子が少なくなっているということでしょうか。

「善き行い」の見本を見る機会が減り、それよりは栄一が忌み嫌う「私利私欲」の見本ばかりが増え、社会秩序が乱れ始めているのかもしれません。