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気になる米国の量的金融緩和の縮小、今後の経済への影響、日本の株価 ~ 論語と算盤 #33

 

 米国では、FOMC連邦公開市場委員会がインフレへの警戒感からテーパリング 量的金融緩和の縮小を加速させることを決めたといいます。FOMCの動向に身構えていた株式市場は15日、反発したそうです。

【米国市況】株反発、終盤に上げ拡大-利上げに「耐え得る」との見方 - Bloomberg

 ブルームバーグによれば、FOMCが経済成長を妨げることなく物価上昇を効果的に抑制するのは可能との観測が広がったためといいます。

 日本では17日、日銀の金融政策決定会合の結果公表があるそうです。それを前に日本の株式も大幅続伸したといいます。

 今後の日本の株価の動向についての専門家の意見は定まっていないようです。米国の力強さ、楽観性に比べてると、それだけまだ解決しなければならない問題が多くあるということなのでしょう。

 

 

 米国の株価が日々の変動はあるせよ、右肩上がりに上昇しているのを見ていると、バブルではないのかと疑いたくなります。今の株価は適正に実態を表しているのでしょうか。それとも、この先どこかで調整局面されることはあるのでしょうか。

 日本株も円安に支えられて高値圏で推移しているようです。今回の日銀の金融政策決定会合では、大規模な金融緩和策は継続する方針といわれています。ただ、企業の資金繰り支援は見直される可能性があるといいます。

日銀、コロナ対応縮小を議論 大規模緩和は維持へ: 日本経済新聞

 日本経済新聞によれば、企業の資金繰り環境は改善してきたと判断しており、支援策を2022年3月末の期限通りに終えるか慎重に検討するそうです。新たな変異型「オミクロン型」の影響を見極めるため、最終判断を1月に見送る可能性もあるといいます。

投機嫌いな渋沢栄一

「相場で金を儲ける事を嫌い、投機仕事に反対するのは、投機仕事は商売の精神に違背するからである。」と栄一はいいます。そして、「商売の徳は、売る者も買ふ者も共に利益を得て悦ぶところにある」といいます。

 「投機となると、必ず損して悲しむ者が現われる。買って利益を受けたものがあれば、これに売ったものは買手に儲けられただけの額を損することになる」。

 妥当な値段、割安と考えられる値段で買っても、それより高い値段で買う人がいなければ損失を抱えることになってしまう。利を貪ろうとして、己を失ってはならないということなのでしょうか。

 

 

 新型コロナが一時的に収まりを見せ、経済活動が活発化し、世界ではインフレ圧力が高まりました。それを抑えようと、これまでの緩和政策を縮小させ、利上げ方向に転じる。過熱し過ぎた経済活動を適正状態に戻していくということでしょうか。何事にも過ぎることになってしまうのが人の弱点かもしれません。

論語の教え

「已(や)んぬるかな、吾 未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり」と、「衛霊公第十五」13 にあります。

「道徳を色にたとえたのはいささか穏当でないとも思われるけれど、この章は、霊公が夫人南子に溺れて道徳を顧みないのを嘆かれたもので、穏当を欠くと言うこともないのだろう」と栄一はいいます。

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 これに対し、「現代の人が物を好むことは、空腹に饑(うえ)を訴えるに等しいものがある様に思われる。これは現代を通じて一般人の思想であり、傾向ではあるまいか」と栄一は指摘、この状況を嘆き、この章句を現代に当て嵌めて、『吾れ未だ徳を好むこと、利を好むが如き者を見ず』と言いたい。この方が、最も道徳のすたれて、物に傾きつつある現代に適切であると思うといいます。

 我々がこの世に共存している以上は、誰でも自分一人で生きて行けるものではない。どうしても相寄り相援けて行かなければならない。その所に道徳の必要があるのである。されば私は、ただ「」にのみ奔る現代人に、切に反省を促したと思う。(参考:「実験論語処世談」渋沢栄一記念財団

耳の痛い話にも聞こえます。

「利」、お金を大切に扱うことは重要なことです。そのためにも「道徳」が必要なのだと栄一がいっているように思います。これなくして他者との関係を築くことはできず、ただ「利」を貪るようになれば、社会が壊れてしまうということなのかもしれません。

 

 

 こうした考えをもとにした栄一の「論語と算盤」は、SDGsと共通するところが多いと言われています。

「道徳というものは、他人のために行うにあらずして、自分の真情より発するのでなければ、道も徳も価値がない」と栄一はいいます。SDGsばかりでなく、すべてに共通することなのではないでしょうか。他人事でなく、自分事にしなければならないということなのでしょう。