東芝問題がさかんにニュースになっています。株主総会が6月25日に開催されるので、致し方がないことのなのでしょう。
東芝1社のガバナンスの問題のはずが、まるで日本の問題だとするような論調もあります。アクティビスト物言う株主の影響を排除しようと経済産業省と結託しようとしていたことが問題視されているようです。
「.....事実認識の異なる現状では、報告書を受けた東芝と、経産省が今後どう説明するかで日本市場への疑念が深まりかねない」と、ロイターは報じます。
「懸念されるのが対日投資への影響だ」。
日本への海外からの投資はただでさえ少なく、GDP実質国内総生産に対する直接投資残高の比率は20年末時点で7.4%と、OECD経済協力開発機構加盟国平均の56.4%%からも大きく差を付けられ、G7では最も低い。 (出所:ロイター)
単純比較することではないのかもしれませんが、あまりにも低調過ぎるようであれば、如何なものといわれて仕方がないのかもしれません。
エフィッシモの主張
ブルームバーグは、東芝筆頭株主のエフィッシモ・キャピタル・マネジメントの主張を報じています。
それによれば、株式会社制度の根幹を揺るがしかねない問題が生じていたことに「強い危機感」を持つとの声明文を発表したそうです。
エフィッシモは電子メールで送付した声明文で、東芝経営陣は今後コーポレートガバナンス(企業統治)を根本的に改善し、株主に対する説明責任や結果責任を果たしていくべきだと指摘。
責任ある機関投資家としての規範を定めたスチュワードシップ・コードの責任を果たすため、中長期的な企業価値向上に貢献できるようガバナンスとコンプライアンス(内部統制)の改善に向けて、東芝経営陣との建設的な対話を継続する考えを示した。 (出所:ブルームバーグ)
エフィッシモの主張は正当のように聞こえます。一方、東芝がズルいことをしているにも思えてしまいます。
なぜ問題になったのか
「人にして不仁なる、之を疾むこと已甚(はなは)だしきときは、乱る」(「泰伯第八」10)といいます。
相手が人の道にはずれているとして、追及が厳格すぎると、相手は逃げ場がなくなり、騒乱となるということを意味します。
まさに、今回の東芝騒動のことをいっているのでしょうか。
「君子は貞にして諒ならず」(「衛霊公第十五」37)といいます。
君子は大正義に従うが、小信義にはとらわれないとの意味です。
「貞」とは、「正道」、「心が正しく安定して迷わない」、「正しい」を意味し、「諒」は、「うそを言わないこと」、「まこと」との意味があります。
どちらが「正しく」、「まこと」のことをいっているのでしょうか。
「正道」の対義語は、「邪道」。邪(よこし)まな道。
「正義」の対義語は、「不義」。人として守るべき道にはずれること。
東芝、エフィッシモ双方に大義はあり、正義もあるのでしょう。どちらが正道で、どちらが邪道なのか、そんな視点で考えてみるのもいいかもしれません。
ガバナンス
少々長いですが、論語にこんな言葉があります。
「国を有(たも)ち家を有つ者は、寡(すく)なきを患(うれ)えずして、均(ひと)しからざるを患う。貧を患えずして、安(やす)からざるを患う、と。
蓋(けだ)し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡なきこと無く、安ければ傾くこと無し。
夫れ是(かく)の如きが故に、遠人(えんじん)服せざれば、則ち文徳(ぶんとく)を脩(おさ)めて、以て之を来たす。既に之を来たせば、則ち之を安んず。
今、由と求と、夫子を相(たす)くるも、遠人服せずして、来たすこと能わず、邦 分崩離析(ぶんぽうりせき)して、守る能わず。而(しか)も干戈(かんか)を邦内に動かすを謀(はか)る。吾は恐る、季孫の憂え、顓臾に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在らんことを」(「季氏第十六」1)。
国や家を運営する者は、人々の財産が少ないことに悩むのではなくて、政治が公平でないことに悩む。国家の財政が貧しいことを憂えるのではなくて、人々が安心して暮らせないことを憂う。遠くにいる人が服従しないのなら、こちらは一層、人の道(文徳)を尽くして感化し、帰服させるべきだといいます。そして、帰服すれば、彼らを安心させるべきだといもいいます。
「由」と「求」は孔子の弟子で、季孫氏という高官に仕えていました。その領地の遠国の者が服従せず、帰服させることができないでので力で服従させようとしました。すると、孔子はそれでは、国は乱れてしまい、運営することができなくなってしまうといい、その本質が、遠国での問題に在るのではなくて、季孫氏の組織自体の問題になることを心配したのです。ガバナンスということでなのでしょうか。
蓋(けだ)し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡なきこと無く、安ければ傾くこと無し。
まずは東芝がガバナンスを改善すべきなのでしょうか。現在のマネジメントに、すべてのステークホルダーを安心させ、納得させることができる施策が実行できるのでしょうか。
「コーポレートガバナンス」とは、会社が、株主をはじめ顧客、従業員、地域社会等の立場を踏まえた上で、透明、公正かつ迅速・果断な意思決定を行うための仕組みを意味します。
仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す
「不仁者は以て久しく約に処(お)らしむ可(べ)からず。以て長く楽に処らしむ可からず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す」(「里仁第四」2)との言葉があります。
心なき者には貧しい生活を長くさせてはならない、逆にまた豊かな生活を長くさせてはならない。心ある者は自分の境地に満足して生き、知ある者は己の境地の価値を社会に活かすとの意味です。
エフィッシモは仁者、それとも知者なのでしょうか。どことなく「知者」のように思えます。
一方、東芝には「コーポレートガバナンスコード」に従った企業経営が求められます。
一部とはいえ納得しない株主がいるのであれば、東芝の落ち度は否めないのでしょう。それでも、東芝は正義を貫いているというのかもしれません。しかし、それでは、エフィッシモのみならず、他の海外投資家からの信用を失うことにもなりかねません。
東芝に「仁者」の心得が必要に思えてなりません。
「コーポレートガバナンスコード」は学ぶことはできますが、それを実践するときの「善・不善」、「正・邪」、「理非曲直」の判断は何に拠るのでしょうか。
経営者個々人の良識でよいのでしょうか。国際社会を含めて認知される、普遍的な条理、道理が求められているように思えてなりません。
「条理」とは、自然の理法を意味し、社会秩序も「条理」を基礎に成り立っているといわれます。また、法も条理をもととしているという思想があるとのことです。
もしかしたら東芝の経営者にそうした概念が欠けていたということなのかもしれません。 根底さえ違えることがなければ、適正に「利」を追求することは何ら問題はないことですが、そこに道徳概念が欠如すると私利私欲になってしまうということなのかもしれません。おそらく、このことは国際社会でも共有されていることということであるような気がします。