子曰わく、不仁者は以て久しく約に処(お)らしむ可(べ)からず。以て長く楽に処らしむ可からず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す。(「里仁第四」2)
(意味)
「心なき者には貧しい生活を長くさせてはならない。逆にまた豊かな生活を長くさせてはならない。仁者、心ある者は自分の境地に満足して生き、知ある者は己の境地の価値を社会に活かす。」(論語 加地伸行)
「約」とは貧困の生活、「楽」とは富貴の生活をさすという。
「不仁者」つまり仁の徳に到達していない人間は、貧困の境遇に長く耐えられず、きっと不義の行ないに走る。また富貴の境遇においては自制心を失って、きっと驕りたかぶる。仁の体得者は境遇によって左右されない、と桑原は解する。
「仁者」「知者」はともに不仁者のように境遇によって支配されることはないのだが、仁の理解あるいは実践において深浅高下の差異があると解釈もあるが、私はこれを優劣ととらずに二面と解すべきではないかと思う。
仁斎が、仁者における仁はたとえば身体における衣服や靴のようなもので馴れきっていてしばしも離せない、知者における仁は病人における薬、疲労者における車のようなもので、馴れ安んずるというのではないが、そのよさを理解して捨てない、というのは巧みな喩えだが、なお差等を出しすぎているのではないか。知者は仁に関する理性的反省人であり、仁者は仁における自然的自由人であろう。
孔子は決して知性を軽視はしていない。人間の道徳との関わり方に二面あることを示しただけで、知性を低くみたものではない。「利」という字を打算ととるべきではなく、道徳的立場からの正しい選択行為ととるべきであろう。(出所:論語 桑原武夫)
実にうまい解説である。
「仁者」「知者」は「雍也第六」23にも登場する。
「知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのち)ながし」。
桑原は、この章でも、両者を優劣の観点からはみていないという。
知者は仁に関する理性的反省人であり、仁者は仁における自然的自由人。
孔子の理想は、無意識的とまでいえば言い過ぎなのかもしれないが、自然的な道徳の実践にあるように思われると桑原はいう。
四十にして惑わず(「為政第二」4)で、七十になると「心の欲する所に従いて矩を踰えず」との表現がそれを表しているという。
「為政第二」4をプロセスとして解釈すれば、知者の過程があって仁者に到達するとも読めそうな気もする。年齢的なこととして取りたくないが、経験の蓄積という時間要素を加えると、その要素も否定できないかもしれない。
得てして、現代は知者に注目が集まりがちである。加地の訳する「己の境地の価値を社会に活かし」、その境遇にストーリ性を求める。
桑原がいう「仁者は仁における自然的自由人」という響きに引かれる。現代のカリスマ経営者はより仁者の色彩が強いように思う。 叩かれることも多いが、それよりどこまでも顧客に奉仕し、すべてのステークホルダーが満足するサービスを開発する。
アマゾン ジェフ・ベゾス、テスラ イーロン・マスク アップル ティム・クック、そして、キャンプファイヤー 家入一真などはどうであろうか。
(参考文献)