孟氏(もうし) 陽膚(ようふ)をして士師(しし)為(た)ら使(し)む。曾子(そうし)に問う。曾子曰わく、上(かみ) 其の道を失い、民 散ずること久し。如(も)し其の情を得ば、則(すなわ)ち哀矜(あいきょう)して喜ぶこと勿(な)かれ。(「子張第十九」19)
(解説)
孟氏が陽膚を士師に任用しようとした。陽膚は曾子にその心得を問うた。曾子はこう答えた。「為政者が道義を失い、民の心はばらばらになってもう長い。もし民の実情を得ることがあっても、むしろ哀しみ憐れと思い、喜ぶことがないようにせよ」と。 (論語 加地伸行)
「士師」、裁判官。
「曾子」、姓は曾、名は参。字名は子與。親孝行で有名だという。孔子より46歳年少で門下の年少グループに属したが、孔子の死後やがてその学団の長となって、儒教の正統を伝えた人といわれる。曾子から子思(しし:孔子の孫)へ、さらに性善説の孟子へと伝わったといわれる。
「柳下恵」、「士師」に任じられ、三度も免職されたという。曾子は、その「柳下恵」を想像したのだろうか。
その「柳下恵」は論語に度々登場する賢者の7名といわれる。
「関連文書」
(参考文献)