子貢(しこう)曰わく、紂(ちゅう)の不善は、是(かく)の如くの甚(はなは)だしからず。是(ここ)を以て、君子は下流に居るを悪(にく)む。天下の悪 皆(みな)帰すればなり。(「子張第十九」20)
(解説)
子貢の言葉。「紂王の不善はそれほどひどいものではなかった。それからすれば、君子 教養人は悪徳者とみなされるを嫌う。世の悪という悪は、すべてその人のしたことになってしまうからである」。 (論語 加地伸行)
悪い噂は蔓延しがち。それが悪評となり、人物評価になるケースもあるのだろうか。古今東西、王朝が倒れるときの最後の王は兎角悪人とみなされるのが常というものだ。子貢はそれを指摘したのだろう。
最後の王に「悪」がなければ、その王朝を倒す「大義」がなくなる。
人は騙されやすいというか、つい誤解をしてしまうということでもあるのだろう。
善人がいれば、悪人もいる。両者を対比することで道徳が生まれるのかもしれない。善人の「善」が強調し、悪人の「悪」を強調すれば、戒めとすることができるのだろう。
「紂王」、殷王朝第30代 最後の王。名は受。帝辛と呼ばれる。
「史記」やその他の所伝によれば、体力、知力に優れていたが、愛妾の妲己(だっき)に溺れ、酒池肉林にふけり、微子や箕子、比干たちの諫言を退け、民心の背くところとなり、周の武王の討伐にされ、王都朝歌の鹿台でみずから火中に投じ、殷王朝は滅亡したといわれる。
後世、夏の桀王(けつおう) とともに悪虐の王の代表とされるが、必ずしも史実ではないといわれる。
「子貢」、人物を比較し論評することが得意だったようだ。
「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」は、「師(子張)と商(子夏)と、どちらがすぐれていますか」と、孔子に尋ねたところから生まれた。
この章は、こうした子貢の性格があってこそのものなのだろう。それが、子貢の合理的なもの考え方を養ったのなのかもしれない。
「子貢」、姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人と言われる。孔子より32歳年少。弁舌にすぐれた秀才で、利殖の道にもたけて孔門第一の金持になったという。
「言語には子貢」と評されただけあって、この秀才はおそらくスマートでやや実直さに欠けるところがあったのかもしれないと桑原は言う。
しかし、「賜や達なり」(雍也第六」8)といって、孔子は子貢の見通しのよさを評価する。
そればかりでなく、子貢は考えて発言するが、いつも正確であると評価する。
「君子は下流に居るを悪む。天下の悪 皆帰すればなり」
人に対する悪評も同じなのかもしれない。一度悪いうわさが立てば、それが増幅され、悪事の根源はその人がいるからとの誤解になるのだろう。その人が権力を持った人物であればなおさらなのだろう。もしかしたら、人はそうした人物が転落していくことを望んでいるのかもしれない。
自分の中に「悪」を入れてはならぬということなのだろう。「悪」を批判し憎めば、その悪は自分の中に入ってこないということであろう。
「関連文書」
(参考文献)