「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【夫子 循循然として善く人を誘う。我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす】 Vol.217

 

 顔淵(がんえん)、喟然(きぜん)として歎(たん)じて曰わく、之を仰げば弥(いよ)いよ高く、之を鑽(き)れば弥いよ堅し。之を瞻(み)れば前に在(あ)り、忽焉(こつえん)として後ろに在り。

夫子(ふうし)循循然(じゅんじゅんぜん)として、善く人を誘う。我を博(ひろ)むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷(や)めんと欲するも能(あた)わず。既に吾が才を竭(つ)くせば、立つ所有りて卓爾(たくじ)たるが如し。之に従わんと欲すと雖(いえど)も、由(よ)る末(な)きのみ。(「子罕第九」11)

 

  (解説)

「顔淵は大きなためいきをついてこう述べた。孔子を仰ぎ見れば見るほどますます高く、堅い岩石に穴をあけようと切り込めば切り込むほどますます堅い。前にいらっしゃるかと思うと、もう後ろにいらっしゃって捉えがたい。

孔子は、順序を踏んで私たちを教導してくださる。学芸をもって私たちの知識を広めてくださり、その帰納、要約として礼儀を教えてくださる。学問をやめようと思うことがあっても、やめることができない。しかし、私は自分のすべてを傾けて学び実践してきたので、孔子のありかたがしっかと眼前に立って見える感じがある。それに従ってゆけばよいのであるが、そうかと言ってとても及びつくことがない。論語 加地伸行

   

桑原の解説

 顔回(淵)が孔子の人格をたたえた言葉である。孔子最愛の弟子であり、また努力型の秀才であった顔回、人間の存在としての孔子に学ぼうと心がけるのだが、孔子という人間の大きさと自由さは、どうしても自分のようなものにとらえきれないという歓声を発したのである。「我れを博むるに文を以てし」云々というように、一般命題としてでなく、「我れ」すなわち顔回自身の体験を踏まえて、孔子をたたえているところが強みであり、また面白さでもあるという。

 

 

 「喟然」というのは、声を出してため息をつくさまをいう。「鑽」とは玉や石に穴をあけることである。孔子をほめたたえる言葉のうち、はじめの四句は、すべて四字の詩句のようになっている。巨峰のように、仰げば仰ぐほど高くみえる。近づいて切り込もうとすると、いよいよ堅い。前にいるかと思って見つめていると、ふいに後ろに立っている。そういう古語があるが、先生はまさにその通りだ。とても私のようなものには捕まえ切れない。この言葉は思想的にいうでけでなく、敏捷で自由な行動の仕方をも含むのであろうという。

 次に「夫子は」として顔回自身の言葉による感慨がのべられる。「循循然」というのは、たえず順序だててということであり、「誘」は進めること、「文」とは詩書六藝など文化一般を指す。「礼」はその文化の中に含まれるものだが、ここに特記したのは、文化を自分の人間存在の中にまとめることの必要をいったのであろう。

「罷めんと欲すれども能わず」というのは、孔子に学ぶことを止める、つまり懈怠(けたい)の心をおこそうとしても、それができない。たとえば、今日は講義に出席するのを怠けようと思っても、敬愛する教授の風姿が目に浮かんで休めなくなるといった感じであろう。全力を出し切って肉薄したつもりになってふと見ると、先生は私の思いも及ぼぬ高みに立っておられる。そのあとについて行こうと思っても、あたかも天に上ろうとするかのように、どこから上ってよいか手だてもない。

 しかし、孔子が忍者のように変幻自在でとらえどころがないといって、顔回が嘆いているのでは決してない。孔子にはエセ道学者風の、あるいは天才芸術家ぶった、韜晦(とうかい)趣味は少しもない。いつもありのままを示す自由人なのだ。そんなら簡単にまねられる、つまり学(まね)びができるかといえば、そうはいかない。それほど複雑にして重厚なのだ。そこで、さすがうちの先生は偉いものだ、感嘆しながら顔回はそうした師につきえたことを喜んでいるのである。

 

 

 徂徠は「嘆」という字には「喜」の意味はないというが、桑原は喜びの感じを加味してよむほうが顔回の真意であると信じているようだ。  

 

dsupplying.hatenadiary.jp

 

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(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

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  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫