子 疾(や)みて病(あつ)し。子路 門人をして臣為(た)らしむ。病きこと間のときに曰わく、久しいかな、由(ゆう)の詐(いつわ)りを行ないこと。臣無くして臣有りと為す。吾 誰をか欺(あざむ)かん。天を欺かんや。且(か)つ予(よ)其れ臣の手に死なん与(よ)りは、寧(むし)ろ二三子(にさんし)の手に死すること無からんや。且つ予 縦(たと)い大葬(たいそう)を得ざるとも、予 道路に死なんや、と。(「子罕第九」12)
(解説)
「孔子の病が篤(あつ)くなられたときのことである。子路が門人たちに臣下の礼を執って仕えさせた。すると孔子は、病状が少し良いときにこうおっしゃった。「もう長いぞ、由の嘘は。私には家臣がないのに、家臣があると見せかけている。私はだれを欺けよう。欺くとすれば、天か。だいたいが、私は、偽りの臣よりも、むしろお前たち門人に看取られて死にたいのだ。そもそもが、私がたとい大葬をもって送られないといしても、私がよもやあ道路に棄てられて死ぬことはあるまいが」と。」(論語 加地伸行)
桑原の解説
「疾」は病気、「病」は病気のことではなく、危篤状態を指す。子路は先生はもう見込みがないと思い、いつもの素直でややせっかちな善意から葬式の準備を考えた。死者が諸侯や大夫である場合には、その家臣がいろいろの職務を分担する。孔子はかつて魯の大夫だったが、今は浪々の身である。それを子路は、これほどの大先生を平民扱いできるものか、大夫の格式の葬式をすべきであると考えて、弟子たちを大夫の家臣のように仕立てて配置したのである。
「間」とは小康を得ること。危篤状態がやや持ち直し、ものがいえるようになると、孔子が子路の「詐」つまりごまかし、インチキを咎めたのであるという。「久しいかな」というのは、よくも長い間、つまり私が重病になってから今まで、という意味にとりたい。古注の孔安国では、子路がこういう考えを持ったのは、今日に始まったことではない、とよんでいる。つまり、子路にはいつも孔子にたいして善意からのヒイキの引き倒しの傾向があったが、今度もまた、ととるのだが、そうした傾向は否定できないにしても、言葉としては無理の感じである。
「吾れ誰を欺かん」として特に「吾」という字をつけているところが、面白い。子路たちが世間を欺くのではない。死んだ私が世人を欺き、天を欺くことになる。そんなことができるか、孔子は自分に引きつけて発言している。以下「予」という字を三回繰り返しているのも同じ心理である。
そうした偽の家臣に手をとられて死ぬより、むしろ自分の二三子(諸君)に手をとられて死にたい。手をとるというのは、臨終にさいして、古代の礼法では、親しい者四人が両手両足を持ったのだという。たとえ立派な葬式などしてもらわなくとも、この私が道端で野垂れ死することもあるまいさ、と虚飾を否定する厳しさの中にも最後はややユーモアにやわらかい語調でいったのであろう。孔子のすぐれた人柄がうかがわれるように思う。
司馬遷は「史記」の中に、「孔子世家」の一篇を設け、彼を諸侯の扱いにしている。子路に学んだというべきか。地下の孔子はこの取り扱い立腹もしなかったろうが、喜びもしなかったにちがいない。しかし、孔子は子路およびこれに同調した多数の弟子をたしなめたのであって、深く叱責したのではない、とする徂徠に賛成したい。むしろ子路らをたしなめつつ、二三子への愛情を披瀝したものとしたいという。
(参考文献)