「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

長引きそうな論争、衝撃的過ぎる事件、良心と倫理と宗教

 

 衝撃的な事件がまだ尾を引いているのでしょうか。そこに宗教やカルトなどの影響があるように伝われば、興味をそそられるのかもしれません。まして国までがそれにかかわるようなことをすれば猶更なのでしょう。そればかりでなく著名人もさかんに発言しているようです。

論語に学ぶ

中庸の徳為る、其れ至れるかな。民 鮮(すく)なきこと久し。(「雍也第六」29)

 道徳における中庸の位置は、この上ないもの。しかし、人々が中庸を欠いて久しいと意味します。

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 孔子の教えでは、忌憚のない直情径行を夷狄(いてき)の風として卑しみ、俗をおどろかすような社会において突出するような行為をきらって、庸徳庸行を尊んでいるといいます(参考:コトバンク)。

「中」は偏らず、過ぎたると及ばざるとのないこと。

「庸」は平常、あたりまえで変わらないこと。

 衝撃的な事件があっても、心を乱されないよう平静を保つには、自分自身の中に正しい判断基準があればいいのかもしれません。「中庸」の視点の大切を改めて認識します。

 

 

 尖がったり、極端であることが注目を集めるようになったと感じます。SNS、ネット時代の弊害なのかもしれません。

「中庸の徳」は、東洋、西洋の区別なく倫理学の主要な概念の一つと言わています。アリストテレス倫理学においても、「徳は正しい中間を発見してこれを選ぶことにある」としているといいます。やはりここでも「極端」は悪徳としています。

 洋の東西を問わず、賢人、哲人たちが中庸を説き、倫理を訴えていたにもかかわらず、現在の世界を見ても、またその歴史を振り返ってみても、極端な主義・主張が登場し、それに熱狂し、世界を席巻することがありました。

 時に、道徳を説く宗教さえもが、対立の種にさえなったこともありました。こうした歴史はどの国にでもあるのではないでしょうか。

 

 

「あなたがたの学校では宗教教育というものがないとおしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。

私が「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり当然歩みを止められた。 (引用:「武士道」新渡戸稲造

 これは新渡戸稲造氏が1900年(明治33年)に発刊した「武士道」の序文の一節です。

宗教がないとは、いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と、著名なベルギーの法学者ラヴレー氏は述べたといいます。

 ラヴレー氏の質問に、自分の「善悪」の概念を作り出した要素が武士道にあったことに気づき、このことがきっかけで新渡戸稲造氏は「武士道」を著作することになりました。

 新渡戸は江戸末期に武家に生まれ、明治維新後に札幌農学校で、クラーク博士門下の影響を受けプロテスタントに改宗します。その彼が英語で「武士道」を執筆し、そこにプロテスタント思想との共通性を見出していきます。

 キリスト教は隣人愛、慈愛(アガペー)を説き、仏教は慈悲を教え、儒教は仁(人間愛)を説きます。どれも自分以外との他者とのかかわりを諭しています。それが各々の宗教のすべてということはないのでしょうが、重要な要素になっているのでしょう。

 時に、こうした宗教や思想を歪曲し、悪用する人たちがいます。そうした事例を私たちは多々目にしてきました。日本が不幸な戦争に突き進んだ背景にもこうしたがあったのかもしれません。こうした過ちは決して繰り返してはならないことのはずです。

 

 

論語」に興味を持ったのは、昭和期の名だたる経営者たちが口を揃えて愛読書に「論語」をあげていることを知ってのことでした。最初は読んでいても全く理解できずに途中で投げ出しました。再び読みだしたのはだいぶ時が経過してからです。また、渋沢栄一の「論語と算盤」の影響もありました。それが決定的だったかもしれません。

 栄一は道徳と経済の一体性を説きました。それが時代を超えて、昭和期になっても経営者の心得として引き継がれていったのかもしれません。

 現代においては、スターバックスが「社会的良心と経済的成長の両立」を掲げ、その実現を目指しているといいます。こうした考えを引き継いでいるといっていいのでしょうか。

 こうした考えが社会に定着していけばよいのでしょう。毎日の生活の中に、良心や徳についての気づきがあり、それを自然に育むことができるようになるのが理想なのかもしれません。そうすれば思いやりに溢れた平和な社会になるのではないでしょうか。しかし、極めて難しいことでもあるのでしょうけれども。

 

「参考文書」

スタバ水口CEOが語る「変化の時代だからこそやるべきこと」:日経クロストレンド