「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

気になるその傲慢さ、増えていないか不遜な考えを持つ人

 

 あの事件をきっかけにして、政治と特定の団体とにのつながりが明らかになり、改めて「政治」や「宗教」を考える機会になったと感じます。

「私はノンポリだ」とか「無神論者」だとか、政治も宗教も避けられることが多く、積極的に語られることが少ないテーマだったのではないでしょうか。

日本では違和感ない「無宗教です」の言葉も海外では危険 元大使が経験した“凍りついた”現場(1/4)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット)

「I’m an atheist(私は無神論者です)」

しかし、海外で無神論者は、「神をおそれない傲慢な人」「不遜な考えを持つ人」というふうに受け止められます。(出所: AERA dot. )

 記事の指摘も理解できます。海外赴任前の事前研修で、公の場で「政治」「宗教」の発言は慎むべきとの話を聞きました。思わぬ反発や反感をかうことになるというのがその理由でした。最初の赴任地がイスラム教徒が多数を占めるマレーシアであったので、その言葉が強く印象に残ったのかもしれません。

 記事も指摘していますが、いざ現地に赴き、現地の人々と近しい間柄になると、「政治」「宗教」は頻繁に会話の中で交わされることになります。研修での教えもあってか、トラブルになるようなことはありませんでしたが、意識するようになったのかもしれません。

 

 

 帰国後、「武士道」を読んだことで、改めて「宗教」に関心を持つようになったのでしょうか。

 「武士道」は、新渡戸稲造氏が1900年(明治33年)に発刊したものです。その序文には、ベルギーの著名な法学者ラヴレー氏との会話で宗教に言及したときの記述があります。

 「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおしゃるのですか」

とこの高名な学者がたずねられた。私が「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり当然歩みを止められた。 (引用:「武士道」新渡戸稲造

 さらにラヴレー氏は「宗教がなくて、どのように子孫に道徳教育を授けるのですか」と、述べたといいます。

 これがきっかけで新渡戸稲造氏は武士道を著作することになったそうです。ラヴレー氏の質問に、自分の善悪の概念を作り出した要素が武士道にあったことに気づいたといいます。

 新渡戸氏の生まれは江戸後期、武家に生まれ儒学を学び、維新後は札幌農学校で仲間の影響を受けてプロテスタントに改宗しています。敬虔なキリスト教徒であった新渡戸氏が「武士道」を著作し、その中でプロテスタントの教えとの共通性を見出していきます。

 

 

論語に学ぶ

子貢(しこう)問いて曰わく、一言にして以て終身 之を行なう可き者ありや、と。子曰わく、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ、と。(「衛霊公第十五」24)

 弟子の子貢が「生涯、行なうべきものを、一字で表せましょうか」と質問します。孔子は「それは、恕(思いやり)。自分が他人から受けたくないことは、他人にもしないことだ」と答えたといいます。

dsupplying.hatenadiary.jp

「黄金律」ゴールデンルールという考えがあります。多くの宗教、道徳や哲学において見出される「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」という内容の倫理学的言明を黄金律といいます。

 孔子は「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」と説き、キリスト教にもイスラム教にも表現の違いはあれ、同じようなことばが存在しています。

 こうした教えが、人に戒めを与え、傲慢不遜になるなと警告しているのかもしれません。

 宗教を正しく理解しておけば、逆にいかがわしい新興宗教と妙なつながりを作ったり、のめりこむことの防止になるのかもしれません。

 

 

 ふと自分は何を信仰しているのかと思えば、「論語」を繰り返し学んでいるかといるからといって、儒教を信仰しているわけではありません。キリストの教えにも興味があって学んでみたいとは思うものの信仰する気はありません。

 父が亡くなり、その父のための一連の供養を行ったことで、何度もお寺に通うことになりました。そうしたことからすれば、仏教徒ということになるのかもしれません。

 父が亡くなる前に、般若心経に多少興味を持ち、大阪法善寺の苔むした水掛不動に信心深く通う人をみては興味を持ち、不動明王のことがちょっと気になり、その真言まで調べたことがありました。そんな経験もあってか、父の法要のたびに住職の唱えるお経を聞いては、なぜお不動さんの真言から始まるのだろうと考えたりします。

不動明王」、邪悪な相手には徹底的に厳しく、人が間違った道へ進もうとした時には、正しい道へと戻れるように諭してくれる存在といいます。その真言は、迷いの世界から煩悩を絶ちきり、邪気を払うためなのかなと考えたりします。

 父ほど信心深くはなく、人に語れるほど仏教のことを深く知っているわけではありません。もう少し空海のことや密教について学んでみたいとは思っていますが、なかなか手についていません。しかし、心の平静さを保ちたいと思うとき、よく般若心経のご真言を心の中で唱えたりします。そう思えば立派に真言密教を信仰しているということなのでしょうか。