またしても企業の不祥事が起こりました。レクサス高輪で車検が不正に行なわれていたといいます。続く不祥事のニュースにたいへんショックを受けます。
ルールを守ろうという道理や良心がなくなってしまったのでしょうか。バレなければ、それでよしということになってしまったのでしょうか。
トヨタは今回の不正の原因を以下のようにコメントしています。
今回の不正は、増加する仕事の量に対して、エンジニアを中心とした人員や、設備の増強が追い付いておらず、慢性的に高負荷な状況が続いていたことが一因として挙げられます。
また、決められた時間内に車検を終わらせることも、目的となってしまっておりました。一台一台のおクルマには、車種や、走行距離、日々の使われ方や、車両の状態などで、必要な作業時間が異なりますが、当初予定された時間で仕上げることを最優先してしまったために、今回の不正につながりました。 (出所:トヨタ)
先に問題となった三菱電機、そして、今回のレクサスでも同じように業務負荷の高さが不正の一因になっていたことをあげています。
厳しい競争環境に晒され、その競争に勝とうとするばかりに、何かがおろそかになり、その歪みとして、どこかに犠牲や負担が生じたのでしょうか。そればかりでなく、そうした問題が生じるであろうということを等閑にし、気づこうとしなくなってしまったということなのでしょうか。
人には競争心、闘争本能なるものがあります。だからといって、守らなければならないものを犠牲にしてもよいという道理は存在しないはずです。
戦闘者タイプの道徳
「人間の闘争本能というものは普遍的で、かつ自然なものであり、また高尚な感性であるとしても、それは人間性のすべてではない。もっと神々しい本能、すなわち愛するという本能が闘争本能のもとにある」と、新渡戸稲造は「武士道」でいいます。
武士道、戦闘者タイプの道徳は疑いもなく、直接的な現実の欠くべからざる問題にのみ取り組まざるを得なかった。そのため、しばしばこの愛するという本能の存在を正当に取り扱うことを閑却してきたのである。 (引用:「武士道」新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
競争に勝ちたいとの本能が勝れば、他の徳目をおろそかになりがちになるとの新渡戸の警告なのでしょうか。
スポーツマンシップ
スポーツにおけるフェアプレーの精神のことを意味します。「公明正大に、全力を尽くす」ことであり、結果的に「負け」ても可とされているが、あくまでも「勝とう」とする努力の精神をさすといいます。競技する相手、審判、競技規則への敬意と尊敬の念はスポーツする者にとって最も大切と考えるだといいます。
武士道に近い精神なのかもしれません。
口上
大相撲の照ノ富士が横綱昇進を決め、伝達式で、「不動心を心がけ、横綱の品格、力量の向上に努めます」と口上を述べたといいます。
横綱の「品格」と「力量」。「記録とかじゃない」。実績ではなく、「生き方」こそ、横綱の品格とイメージしたそうです。
「横綱という地位がどういう地位か理解して、みんなの見本になるような横綱でいたい」。
勝ちさえすればいいと映る白鵬に対する皮肉と、そこからの学びがあったということなのでしょうか。
個人主義と武士道の衰退
キリスト教徒である新渡戸稲造は、キリスト教の道徳はもっぱら個人に関するものだと指摘し、個人主義が道徳の要素として勢力を増すに従い、その道徳が実際的に応用されるだろうといいます。
一方、武士道は、支配する者、公の立場にある者の道徳行為、国民一般の道徳行為に重点を置いていたといいます。
新渡戸稲造が「武士道」を発刊したのは1900年、封建体制が崩壊してから30年もたった明治の半ばころのこと。
武士の訴えてきた使命よりも、もっと気高く、もっと幅広い使命が今日、私たちに要求されている。広がった人生観、デモクラシーの成長、他民族、他国民に対する知識の増大とともに、孔子の仁の思想――あるいは仏教の慈悲の思想もこれに加えるべきか――はキリスト教の愛の観念へとつながっていくだろう。(引用:「武士道」新渡戸稲造 訳奈良本辰也 P184)
SDGs時代の道理
今日、地球温暖化という危機を前にして、古い経済体制から新たな経済体制への移行が求められています。価値観の転換が必要なのでしょう。競争を是として、個人主義が道徳の要になっていた社会に、SDGsやESGを意識する要素を加えていく必要があるのでしょう。今まで正しいと判断する思考論理にアップデートが必要になっているということなのかもしれません。それは道徳の普遍的要素の学習にあるような気がします。
論語の教え
「詐(き)を逆(むか)えず、不信を億(はか)らざるも、抑々(そもそも)亦(また)先覚(せんかく)する者、是れ賢か」(「憲問第十四」31)との言葉があります。
「これは詐偽(さぎ)ではないかとはじめから邪推したりしないし、約束を守りはすまいとはじめから推量したりしないが、どこか途中で、おかしいと先に察知できる者、それが賢人である」との意味です。
こうした人物が、企業の統治者、また為政者にも少なくなっているのかもしれません。
「之を愛して能(よ)く労せしむること勿(なか)らんや。忠にして能く誨(おし)うること勿からんや」(「憲問第十四」7)
「人を愛するばかりで、苦労させないということがあろうか。まごころを尽くすばかりで、道理を説くことがなくてもよいものか」との意味です。
企業の統治者、そして、為政者こそ、「道理」を知り、「徳」を語ることができる人であるべきなのでしょう。
「参考文献」