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おもてなしと東京オリンピック 【礼とは、人ともに喜び、人ともに泣くこと】 ~武士道 #5

 

 東京オリンピックが間近に迫り、各国選手団の入国が続いているようです。

 AFPによると、来日した中国選手団の第1陣が、ホテルの新型コロナ対策の甘さを指摘、不満をもらしたといいます。

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選手村は許可を得た関係者以外の立ち入りは禁止だが、セーリング競技は会場が遠いため、選手らは会場近くの指定のホテルに滞在することになっている。 (出所:AFP BB NEWS)

 中国ヨット協会の会長は、「チームはホテルの1フロアで過ごすが、同じホテルに観光客も泊まっている。これは明らかに隠れた危険性だ」と話し、この問題について、組織委員会と話し合っているといいます。

 組織委員会が発行する安全に関するガイドラインでは、新型コロナに感染した場合はすべて本人の自己責任となっているとのことです。 

 

  配慮の欠如ということなのでしょうか。配慮が欠けてしまえば、もてなしどころではないような気もします。

「配慮」、事情をふまえて、気遣いのこもった取り計らいをすることを意味する言葉です。「配」はくばるの意味で、「慮」はおもんぱかること。「配慮」は気づかいを行き渡らせることを意味しているといわれます。

「礼」や「マナー」に通ずるものがあるのでしょうか。

礼とは、人ともに喜び、人ともに泣くこと

礼儀」は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行なうので、いつも優美な感受性として現れる、と新渡戸稲造は「武士道」で説いています。 

の必要条件とは、泣いている人ともに泣き、喜びにある人ともに喜ぶことである。(引用:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也 P67)

 これが日常生活の細々としたことに及ぶとき、人の注意をあまりひかない些細な行為の中にあらわれるともいいます。

 セーリング会場における一件からすると、古来からあった礼の精神が退化しているのでしょうか。

礼法

 礼法というものがあります。念入りに作られた「形」や「作法」と、少々堅苦しさを感じますが、実は合理的な考えをもとにして作られています。

「敷居を踏むな」という教えがあります。礼法ではこれを次のように説明します。

敷居は柱と共に日本建築を正しく支えている要です。歩く度に敷居を踏めば、敷居は緩み天井も下がってしまいます。

これと同様に、畳の縁を踏むなといわれますが、これは行き過ぎです。畳の縁は損傷すれば修理すればいいわけです。 (引用:礼法とは

 「物を大切に扱うには、物の機能を損なわないように」という教えが由来のようです。

 

  

 礼法の「形」とは、第一に実用的で無駄を省き能率的であること、第二は合理的ですべてに科学的な裏づけがあること、第三に民族的に納得でき、「美」として映ることと、小笠原流礼法では説きます。

 また、「作法」とは、人に対する恭敬・敬愛の心を持つことと説きます。

 喜び、怒り、悲しみといった感情は行動になってあらわれてしまうので、相手、そして、場所を考えて気持ちを抑えることが必要といいます。相手の立場を考えて行動することが大切な作法といいます。

作法」とは、時、所、人に併せて当たり前のことが自然にできることで、 「極めれば無色無形なり」ということを教えているのです(引用:礼法とは

 新渡戸が「武士道」で説く、「礼」に近いように感じます。

 「他人を大切にするということは、自分を大切にすることから生まれてきます

と、小笠原流礼法では言います。これは利己主義・自分本位ということではなく、自分の人格を大切にすることですと説いています。

論語の教え

「楽 正し雅頌(がしょう)各々其の所を得たり」(「子罕第九」15)との言葉があります。

 乱れた音楽を正すことによって、その音楽に合わせて誦せられる詩の雅、頌もそのあるべき場所に戻すことができたとの訳です。 

dsupplying.hatenadiary.jp

 乱れた礼式をただすことで、規範も整うということでしょうか。 

 風俗に品格があれば、その国の勢いは盛んになるが、低級になれば衰退に向かう。世の盛衰はその社会の風俗にかかっている。その風俗を高きに保つものこそ礼節である。(引用:「日本人の品格 新渡戸稲造の武士道に学ぶ」P155)

 

  

 このオリンピックを機に、「礼」や「おもてなし」の意味を考えてみるのもいいのかもしれません。

 

弓を引く、的を射抜く

 小笠原流礼法の第28代当主であった小笠原清務が弓を引く写真をみて、オリンピック競技でもあるアーチェリーのことを思い出しました。

 やみくもに弓を引こうと思うと、うまく引くことができないないのですが、ある一定の所作に従うと不思議、そんなに力を入れずに引けるのです。そして、それから精神を整えて的を射抜く。「礼」の真髄とはこのことかもしれません。

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「優雅な作法を絶えず実践することは余分な力を内に蓄えるに違いない」と新渡戸は言います。一方、小笠原清務は、「あらゆる礼法の目的は精神を陶冶することである」といいます。

陶冶とは、もって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。

教育と厳密には区別しにくい概念であるが、やはり違いはある。教育が人間の成長に関する包括的な概念であるのに対して、陶冶は、知的・道徳的・美的・技術的諸能力を発展させることによって、よりよい人間を形成しようとすることである。

 礼の深さを感じます。「服の乱れは、心の乱れ」といいます。まずはそこから礼の本質を理解できればいいのかもしれません。

 

「参考文献」