「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

悪しき慣習か、尼崎のUSB紛失問題の背後にある慣れとベンダー・ロックイン

 

 兵庫県尼崎市でのUSBメモリーの紛失した問題で、情報システム会社「BIPROGY(ビプロジー)」(旧日本ユニシス)が30年以上、市の住民情報を管理する関連業務を受託していたといいます。いわゆる「ベンダー・ロックイン」だと読売新聞は指摘し、発注側のチェックの甘さにつながる可能性があるといいます。

USBメモリー紛失業者、30年以上の「ベンダー・ロックイン」 : 読売新聞オンライン

 読売新聞によれば、市は給付金を迅速に給付する必要があるとして、ビプロジー随意契約で発注していた。また、USBを紛失した再々委託先の社員は約20年にわたって市のシステムに携わっていたそうです。市の担当者は数年ごとに異動するため、社員が仕事を教えることもあったといいます。この社員は住民情報を管理するシステムのIDやパスワードも付与され、データを取り出せる立場にもあったといいます。

 起こるべくして起こった問題ということでしょうか。

 

 

 業務にかかわるみなそれぞれが決められていたことは出来ていたのかもしれません。ただそれだけでは十分ではないことをこの問題は示しているのではないでしょうか。

論語に学ぶ

子游(しゆう)曰わく、子夏(しか)の門人小子(しょうし)は、酒掃(さいそう)、応対、進退に当たりては則(すなわ)ち可なり。抑々(そもそも)末なり。之を本(もと)づくば、則ち無し。之を如何(いかん)。子夏 之を聞きて曰わく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過てり。君子の道は、孰(たれ)に先に伝えん。孰か後に倦(う)まん。諸(これ)を草木の区にして以て別あるに譬(たと)う。君子の道は、焉(いずく)んぞ誣(し)う可(べ)けん。始め有り卒(おわ)り有るは、其れ唯だ聖人のみか、と。(「子張第十九」12)

 弟子の子游が「子夏の弟子たちは、掃除や客の接待や作法など躾においては問題がない。しかし、それは端々のことだ。道理の根本については、見るべきものがない。いかがなものであろうか」といいました。子夏はこの話を聞いて、「言游は間違っている。道理の根本を誰に先に教えよう。誰がその後に厭くであろうか。譬えてみれば、草木の種類が区別されているようなものだ。道理の根本は順序を追って教えるべきものであって、それをしないのは、道理の根本をないがしろにすることになる。そうしてよいものだろうか。始めも終わりも完備しているのは、聖人 完全な人格者だけである」と反論しました。

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 学びに終わりがないということなのでしょうか。マナーを身につけても、そうする理由を正しく理解しなければ、どこかで過ちを犯してしまうのかもしれません。そうかといって、道理ばかりに走り、マナーを身につけなければ、口先ばかりの批評家になりかねません。

 

 

市にITの専門知識がある職員が少なく、市幹部は「長年の契約で『慣れ』があった。業者任せと言われても仕方がない」と語った。(出所:読売新聞)

 成長しない日本の縮図のように感じます。長年の「慣れ」が慣習となり、それに疑問を感じなくなり、常識と化していくのでしょうか。常に理想を問い探求し、それに近づいていこうという実践がなければ進歩は止まるということなのでしょう。

 「ベンダー・ロックイン」とは、 読売新聞によれば、特定の業者の技術に依存したシステムを採用した結果、他の業者への乗り換えが困難になり、特定業者に依存せざるを得ない状態になることをいうそうです。競争が働かずにコストが増す弊害があるとされるといいます。

 理想を追求した結果のベンダーロックインであれば、問題はないのかもしれません。役所の仕事が決めて効率化され、卓越した行政サービスが市民に行き届く。しかも、それは低廉な価格で....

 

 

 孔子は子夏に対し、「女(なんじ)君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ」(「雍也第六」13)といったといいます。

「君子の儒」とは天下の事に責任をもち、民が安んずる志を持つものであり、「小人の儒」とは自分一身を善くするにとどまって、社会的影響を持ちえない者といいます。

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「儒」とは、教育者ということを意味します。「君子儒」と「小人儒」の違いを、人を治める学と人に治められる学といってもよいと桑原武夫は解説します。

 孔子は子夏に対して、あまり細部ばかりにこだわるのでなく、天下を考える大儒になれといったと解釈されます。

 「小人儒」ばかりでは、国や組織の成長も止まり停滞するのではないでしょうか。それが今の日本なのかもしれません。