「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

平常を取り戻しつつある社会と凶暴な事件 ~ 炉辺閑話 #58

 

 コロナの感染確認が東京都内で9人になったという。東京で1桁となったのは2020年5月31日以来、およそ1年5か月ぶりという。全国でも2桁に達した都道府県はなく、86人に減っているそうだ。

 街に少しずつ賑わいが戻り始め、少しづつ日常が戻ってきたのだろうか。大規模イベントの人数制限が変更になり、収容人数に応じて「上限5千人」または「収容定員50%以内」のいずれか多い方が全国で適用されることになるそうだ。スポーツも観客が戻り、歓声をあげることも可能になってきた。平常を取り戻しつつあるようだ。

 こうした現実から見れば、過去の紆余曲折、様々なコロナ対策の議論も意味あることだったのだろう。

 衆院選でコロナ対策が争点と言われていたことがうそのようである。政権選択の選挙と言われていたが、与党も野党共闘議席を減らした。その言説にのらず、賢明な選択をした人々が多くいたということなのだろう。

 

 

 そんな中、京王線の車内で凶暴な事件が発生した。

「人をやっつけるジョーカーに憧れていた。犯行のための勝負服だ」

2019年に公開されたジョーカーが主役の映画「ジョーカー」を想起させるところもある。

元々は心優しいジョーカーが不条理な世の中への不満をため込み、地下鉄で男たちに襲われた際に、持っていた銃で男たちを銃殺。そしてこの事件が悪の道へと突き進んでいくきっかけとなるのだ。(引用:文春オンライン

 文春が指摘する「心優しいジョーカーが不条理な世の中への不満をため込み」という行が気になる。小田急線でも同じような事件がおきた。その背景に共通することはないのだろう。

論語の教え

「宰予 寝に畫(えが)けり。子曰わく、朽木(きゅうぼく)には雕(え)る可(べ)からずれる。糞土の牆(しょう)には、杇(こてぬ)る可からず。予に於いてや、何ぞ誅(せ)めん、と。

子曰わく、始め吾 人に於けるや、其の言を聴きて、其の行ないを信ぜり。今 吾 人に於けるや、其の言を聴きても、其の行ないを観る。予に於いてや、是を改めり」と、「公冶長第五」10 にある。

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「以前は、他者を見るとき、その言葉がりっぱだと思えば、その人の行動を信じたものであった」と孔子がいったそうだが、宰予の一件の後、「その人の言葉を聴いても、その行動を観ることにしている」といったという。

  学問を志しているはずの宰予が、自室で絵を画いている姿をみてのことだったという。その姿を見た孔子は「腐った木には彫ることはできない。ぼろぼろになった土塀は塗って修復することができない。宰予を責めてもしかたがない」と、言ったそうだ。

 これだけ荒んだ世の中である。政権取りばかりを心を奪われていては、見えるものも見えなくなっているのだろうか。本当に正さなくてはならないものは、もっと他にも、たくさんあるようだ。

 

 

栄一の倒幕運動

 明治期に活躍し、日本資本主義の父と言われるようになった渋沢栄一も、若き時分には尊王の志士として倒幕運動に加わろうとしていたという。

 そんな栄一に、父 市郎右衛門は、「その位にあらざる者が如何に田舎から駆け出して単身奔走して見たところで、何の効果も挙るもので無い」と説き、栄一の決心を翻させようとしたという。しかし、栄一は出奔してしまう。当時の社会の雰囲気にのまれての栄一の志だったのかもしれない。

 江戸末期の日本は、ずいぶん物騒な世の中だったのだろうか。尊王攘夷が正義として語られ、それに感化されて、過激な行動に走る輩が増える。そして、無意味な殺戮が繰り返される。栄一が加わろうとしたその倒幕運動は直接、幕府を倒すことには繋がらず、やがて収束していく。

 しかし、その後、幕府は倒れ、明治という新しい世になり、栄一は飛躍していく。尊王の志士になろうとした当時の栄一の言動も、そして父の戒めも意味あることだったのだろう。

 今ある足跡が未来につながる。その未来からみたときに、その過去に意味付けされるということなのだろう。