まだまだ日本も捨てたものではない、その底力を2025年に開催される大阪・関西万博で披露できればと期待してものですが、開催が近づくにつれ、その期待もだんだん薄れてしまいます。
海外パビリオン建設の遅れに続き、目玉のひとつであった空飛ぶクルマの商用飛行の実現が危ぶまれているそうです。
空飛ぶ車、万博に量産間に合わず 安全認証遅れ、調達は最大数機 | 共同通信
事業者となる四つの企業グループ中、二つは量産に必要な安全認証取得が遅れ、うち1グループは商用運航を断念。調達できる機体数は4者とも最大数機の見込みだ。(出所:共同通信)
予定通り開催されるのか不安視されていますが、それに加えて展示物までもが危うい状況なのでしょうか。
目標を明確にし、緻密に計画し、準備を進めれば、少々困難なことであっても、実現することができる、また、そうした力が日本企業には残っていると思っていましたが、そうではないということなのでしょうか。そもそもその期限内に実現する可能性は極めて低かったにもかかわらず、派手な掛け声ばかりで、ただ突き進んできたということなのでしょうか。
昨今の世の中の動きからしても、これが現実として受け入れなければならないのかもしれません。
論語に学ぶ
先進の礼楽に於けるは、野人なり。後進の礼楽に於けるは、君子なり。如(も)し之を用いなば、則ち吾は先進に従わん。(「先進第十一」1)
周王朝のはじめの頃の人たちの礼楽のあり方は、素朴であった。現在の人たちのそれは、華やかで整っている。もし礼楽を用いるとあらば、私は素朴なありかたに立ってみようと、孔子はいいました。
時が移ろえば、利便性は向上し、社会は華やいでいくものなのでしょう。過去を振り返れば返るほど、それは明らかなことです。
孔子もこうした事実を認め、整美を否定することはなかったといいます。ただ初心の質朴さ、飾りけがなく素直なことを忘れるなと言いたかったのだろうといいます。
混乱する日本社会を見ていると、大切なことを忘れているのではないでしょうか。
やりたいことがあって、構想を練り、論理に基づいて計画すればいいのですが、そんな基本的なことも忘れてしまったのでしょうか。政治による掛け声ほど危ういものはないということなのかもしれません。
「参考文書」