コロナ渦、気候変動、相次ぐ災害。こんなたいへんな時期にあって、企業の不祥事が続いています。東芝、三菱電機、日軽金、そして、かっぱ寿司まで。この国の企業の「倫理観」を疑いたくなります。
「企業は人なり」との松下幸之助の言葉もあります。
こうした「倫理観」の欠如は、その企業に属する人たちの伸びた影ということなのでしょうか。「倫理観」を養うためにはどうしたらいいのでしょうか。
武士道
武士にとって裏取引や不正な行いほど、いまわしいものはないと、新渡戸稲造は「武士道」の中で説きます。
士の重んずることは節義なり。
節義はたとへていはば人の体に骨がある如し。骨なければ首も正しく上にあることを得ず..... (中略)
されば人は才能有りても学問有りても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事欠かぬなり (出所:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
義
「義」、武士道の最高の支柱と新渡戸はいいます。
しかし、「義」ほどあいまいなものはないのではないでしょうか。ある人が正しいとする義が、別のある人にとっての「義」と同じであるとは限らない。仮に両者の「義」が同じであれば、対立は生じません。
新渡戸は孟子の言葉から「義とは、人が失われた楽園を再び手中にするために必ず通過しなければならぬ、直(すぐ)なる狭い道」といいます。
また、キリストは「義とはそれを見失いし者が見出すべき義の道そのものなり」とするといいます。
「義」は個人の中に内在し、判断、行動する際に常に求められるものということなのでしょうか。そして、それは終わることのない道ということなのかもしれません。
義理 正義の道理
「正義の道理」が私たちになすことを要求し、命じていること以外にどんな義務があるのだろうかと新渡戸はいいます。そして、これを「義理」と呼びます。
いつしかこの「義理」と「義」が同化するようになり、それが詭弁と偽善を抱えこむことになったと指摘します。
たとえば、親に対する行為においては愛情が唯一の動機である。
だが万一、愛情をもてなくなったときには、親に対して孝養を命ずる何か別の権威が必要である。このような事実からこの「義理」が生まれたものだと思う。 (出所:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
プロテスタントである新渡戸は、義理は動機付けの要因としては、「律法」とされるキリスト教の愛の教えに、はなはだ見劣りするといいます。
論語の教え
「徳の脩(おさ)まらざる、学を講せざる、義を聞きて徙(うつ)る能(あた)わざる、不善改むる能わざるは、是れ吾が憂えなり」(「述而第七」3)との言葉があります。
孔子の嘆きといっていいのでしょうか。
「徳が積もらないこと、学習が進まないこと、義を学んでも実践できないこと、不善をば改めることができないこと、これらが私の悩みである」。
「義」とは、正しさ、善きことを求めて歩んで行くことなのでしょうか。
「義」を求めずして、「倫理」は成立しないとも言えそうです。
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不祥事を起こす企業に、善き社会を作ろという義はあるのだろうか。
「参考文献」