ESG(環境・社会・ガバナンス)を重視した投資の資産運用額が増大しているといわれています。いわば投資を通して、世の中を善くしていこうという流れでしょうか。ESG投信に規制を検討することを金融庁も検討しているということですから、その潮流の強さを感じずにはいられません。
多くの企業が意識し、自らの活動内容を統合報告書で報告するようになってきました。しかし、その一方で、その企業が母体となる企業年金はESG投資に積極的になり切れていないといいます。少し不思議な感じもします。
なぜ積極的になれないのでしょうか。なぜ勇気ある決断ができないのでしょうか。
勇気
勇気は、「義」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないと、新渡戸稲造は「武士道」の中で説きます。
「義を見て為さざるは、勇無きなり」
この格言を肯定的に言い直すと、「勇気とは正しいことをすることである」となると新渡戸はいいます。
あらゆる種類の危険を冒し、生命を賭して死地に臨むこと――これはしばしば勇猛と同一視され、武器をもつことを職業とする者にあっては、そのような、向こう見ずの行為が不当に賞賛されている。シェイクスピアがそれを「勇猛の私生児」となずけた。 (出所:武士道 新渡戸稲造 訳奈良本辰也)
これに対し、武士道は「死に値しないことのために死ぬことは「犬死」とした」と新渡戸は指摘し、水戸義公のことばを紹介しています。
勇気、武士道では、いかにして肚(はら)を錬磨するかと言います。
江戸期、武士である以上、戦への覚悟、「死」を意識せざるを得なかったのでしょう。当時は母親たちが少年たちに軍物語(いくさものだかり)を聞かせ、その幼子たちが痛さに耐えかねて泣くと、その母は「このくらいの痛さで泣くと臆病者ですか。いくさで腕を切り落とされたらどうするのです」と子を叱ったと新渡戸は言います。
しかし、それはもう遠い過去のこと。勇気を定義する言葉も時代に合わせて変化するのでしょう。
「人が恐れるべきことと、恐るべきでないことの区別こそ勇気である」、新渡戸はプラトンの言葉が使い、西洋では、道徳的勇気と肉体的勇気を区別していたといいます。こちらの方が「勇気」の説明としてはわかりやすいのかもしれません。
論語の教え
新渡戸が引用した「義を見て為さざるは、勇無きなり」は論語の
「子曰わく、其の鬼に非(あら)ずして之を祭るは、諂(へつら)うなり。義を見て為さざるは、勇無きなり」(「為政第二」24)
桑原武夫はこの章をこう解説します。
「鬼」は祖先の霊魂。子孫以外の者が、鬼を祭ってはならないのである。
そうであるのに、自分の祖先の霊魂でもない、有力な他家の鬼を祭るのは、その有力者に対する諂いである。こうした祭祀に関してなすべきことと、なすべからざることを、はっきり見定めたうえ、なすべきことをせずにすますのは、勇気がない、つまり卑怯である、と解すべき。(論語 桑原武夫)
「義を見て為さざるは、勇無き也」という言葉は、そこだけ切り離されて、日本の武士道に大きな影響を与えた。現代の私たちでさえ、この言葉が決定的瞬間に正義の行為への発動を支えているように思われると桑原武夫は指摘します。
「正邪」、「善悪」、「理非曲直」を見きわめ、「正しいこと」をすることが「勇気」ということのようです。
勇気は、「義」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないという新渡戸の指摘を理解できます。
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ESG投資に躊躇する企業は、もしかして「勇気」がないということなのかもしれません。
「参考文献」