季氏 閔子鶱(びんしけん)をして費の宰と為ら使(し)む。閔子鶱曰わく、善く我が為に辞せよ。如(も)し我を復(ふたた)びする者有らば、則ち吾は必ず汶上(ぶんじょう)に在(あ)らん、と。(「雍也第六」9)
(解説)
「季子が閔子鶱を費の長官に採用しようとしたところ、閔子鶱はこう答えた。「ことばを尽くして私の辞退をお伝え下され。もし二度目の思し召しがありますならば、私めは必ず国境の汶川(ぶんせん)の上(ほとり)に参りましょうぞ」と。」(論語 加地伸行)
「閔子鶱」、閔損(びんそん)のことで、字名が子鶱。孔子より15歳年少の弟子。孔門の徳行の士として著名であったという。
「費」は、現在の山東省費県の西北にある季氏の城。
「汶」は、斉と魯の国境近くの川。
桑原は、孔子の弟子は大部分仕官しているが大夫の家に仕えなかったのは、この閔子鶱と曾子など数人だとして、程伊川(ていいせん)は彼の潔白さを褒めているという。
孔子は治国平天下の志をもっていて、決して政治を軽く見てはいない。学問は社会に奉仕するためにあるとする孔子だが、現実の政界の腐敗を体験して、これを厭わしく思う瞬間をしばしばもったと桑原はみる。
この師匠の矛盾した意識を反映して、孔門は子貢・子夏などの官僚志向派と、顔回・閔子鶱などの修養清潔派とにわかれているように見えるという。孔子の真意がどこにあったかとらえ難いが、彼は前者を決して理論的に否定するのではないが、心情的には後者に傾いているように見える。
この「論語」が以後中国官僚の教科書となっても、矛盾は続くと桑原はいう。
顔・閔を理想像としながら、人民から賄賂をとることは当然とするような読書人=政治家が輩出するのであると桑原はいう。
政治腐敗はどの国、どの時代にでもあるのではないか。何も中国に限ったことではないように思う。道徳を実践することの難しさであり、人生において、道徳は二の次になりがちだということなのかもしれない。
たった一人が道徳を身に纏ったとしても、それを理解する人が現れない限り、 顔回・閔子鶱などの修養清潔派にならざるを得なくなるといことなのかもしれない。
如し我を復びする者有らば、則ち吾は必ず汶上に在らん。
閔子鶱は季氏の不徳を知っていようである。
(参考文献)