公山弗擾(こうざんふじょう)費(ひ)を以て畔(そむ)く。召(よ)ぶ。子 往(ゆ)かんと欲す。子路 説(よろこ)ばず。曰わく、之(ゆ)く末(な)きのみ。何ぞ必ずしも公山氏に之(こ)れ之かんや、と。子曰わく、夫(そ)れ我を召(め)す者にして、豈(あに)徒(いたず)らならんや。如(も)し我を用うる者有らば、吾 其れ東周(とうしゅう)を為さんか、と。(「陽貨第十七」4)
(解説)
「公山弗擾が費を本拠地として、主家の季氏に叛いた。彼は孔子を召し出そうとした。しかも孔子は往こうとした。子路は賛成しないで、こう述べた。「お行きなさるな。どうして公山一族のところに行きなさる必要がありましょうや」と。孔子は言った。「そもそも私を召しだそうとするほどの者ならば、どうして単なる呼び掛けであろうか。もし私を用うるならば、私は周王朝の理想を、この東方のわが国に興してみせよう」と。(論語 加地伸行)
季孫氏の家老「公山弗擾(公山不狃)」が「陽虎(陽貨)」と組んで、季孫氏の本拠地 費を占拠する。いわば反乱ということであろうか。
なぜ孔子は「公山弗擾」に呼応しようとしたのだろうか。ここが季氏を追い落とす千載一遇のチャンスとでも考えたのだろうか。
「如し我を用うる者有らば、吾 其れ東周を為さんか」
しかし、「公山弗擾」、「陽虎」とも敗れて斉の国に逃げるという結末になる。
子路の説得が功を奏したのだろうか、それとも.....
「夫(そ)れ我を召(め)す者にして、豈(あに)徒(いたず)らならんや」
「公山弗擾」が、孔子が期待するほどの人物でないということで、見限ったのだろうか。
「史記」にはこの騒動の記述がある。孔子が重臣たちの軍縮を定公に進言し、子路が季氏の宰となり、その城郭を破壊しようとする。これに季氏も乗じ、「公山弗擾」が不法占拠する費の城郭の破壊を企てるが、逆に「公山弗擾」が魯の国に攻め込む。しかし、これがあだとなり、「公山弗擾」は戦いに敗れ、斉の国へ逃げる。
孔子の理想は実現しなかったかもしれないが、前進はあったのだろうか。野望は実現せずに、思惑とは違った展開になったりするが、それが思わぬ社会的な恩恵になったりしていく。
五十にして「天命」を知る。
魯の政治を壟断(ろうだん)していた御三家(季氏)を打倒しようとして果たさず、五十六歳以後放浪の旅に出る、この運命をさとったことであるという。
この事件がきっかけだったのだろうか。
(参考文献)