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登山訓練中の那須雪崩事故、異例の実刑判決、人災と断じた地裁

 2017年に栃木県那須町で登山講習中の高校山岳部員ら8人が亡くなった雪崩事故で、宇都宮地裁が教師ら3人に実刑判決を言い渡しました。

那須雪崩事故、引率教諭ら3人に実刑判決 宇都宮地裁 - 日本経済新聞

 高校時代に山岳部に属し、よく山に登っていた身からすると気になるニュースです。雪崩発生の予見可能性や事故を回避するための安全確保措置が裁判の争点となったそうです。

 

 

3人は天候などを鑑み、当日の講習内容を歩行訓練に変更していた。判決は「深雪歩行訓練の区域によっては雪崩を原因とする重大な死傷事故を発生させるおそれが懸念される状況にあった」として、3人が事故を回避する措置を怠ったと強調した。(出所:日本経済新聞

 地裁は訓練の責任者や部活動の顧問として3人が危険予測や情報共有、回避指示などをしなかったと認定し、自然災害が原因であるが「相当に重い不注意による人災だった」として、刑の執行を猶予する特段の事情がないと結論づけたといいます。

 重たい判決です。山を登るということは危険を伴う行為です。自分の高校山岳部の経験からしてもやはり顧問の判断は大きなウェイトを占めます。それによって危険や遭難を回避できます。当時は今の登山ブームとは異なりアルピニズム「より高く、また、より困難な状況・スタイルによる、スポーツ登山を志向する考え方・発想」が全盛で、こうした考えに感化され難路に挑戦したがる高学年生と、低学年生の体力差、技量差を心配する顧問との間で、どの山を登るかでもめたりもしました。体力に優れる人が多くても、一人でも弱い人がいれば、パーティを組む登山においては、それが全体の力になってしまいます。

 そんな指導もあってか、慎重さを身につけることになったのかもしれません。月一登山、年間30日程度の入山でしたが、それでも荒天に阻まれて年に1度や2度は撤退や途中下山を強いられることがありました。冒険登山ではないのですから何よりも安全優先、そこに命が駆け引きがあってはならないのです。荒天時の深雪歩行訓練などもってのほかです。

 

 

論語に学ぶ

之を知る者は、之を好む者に如(し)からず。之を好む者は、之を楽しむ者に如からず。(「雍也第六」20)

 之を知る者は、之を好む者に及ぼない。之を好む者は、之を楽しむ者に及ばないと孔子はいいました。

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 文学者の桑原武夫は登山を例にこのことばを説明しています。

 山があること、さらに登る技術を知らなければ登山は成立しない。しかし、登山家といわれるのには、山が好きでなければ駄目である。好きだからあくまで登攀に成功しようという闘志もわいてくる。しかし、本当の山登りの達人は、谷をわたり岩壁を登ること自体に楽しみを見出している。だから他人にまたは組織に要求されて登るわけではない。気分ないし体調がよくないとみたら、登攀を打ち切ってこだわらない。そして、日を改めてまた登って楽しむのであるという。(引用:論語 桑原武夫

 我が山岳部の顧問は、山は楽しむものであって、競技性を否定し、高校総体への参加を拒絶していました。そうした境地にあってから正しい判断ができていたのかもしれないと思ったりします。

 

 

 栃木県内では高校生向け登山講習会が慣例となっていたそうで、「正常性バイアス」が影響した可能性があるともいわれます。「重大な危険を看過し、相当に緊張感を欠いたずさんな状況の下で漫然と実施されるに至った」と地裁は指弾したといいます。

 怖い話です。「正常性バイアス」とは、認知バイアスの一種で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりするという認知の特性のことをいうそうです。

正常性バイアス」が働いている場面が、色々と多くあるのかもしれません。企業においても、政治においても、そして教育現場でも。しかし、「命」を軽んじることだけは断じて許されるものではありません。

 

 

 高校時代、たくさんの山に関わる本を読んだことを思い出します。日本のアルピニズムの第一人者小西正継に憧れ、貪って本を読んだものです。それが「登山」とか「遭難」に対する考えに大きく影響していると今、つくづく感じます。今日の登山ブームとはちょっと違う世界の話なのですが。