多少の問題を抱えつつも少しずつそれを良くしていこうとするのが日常なのでしょう。自分でコントロールできる問題であればいいのですが、そうでないことが多くなると気が滅入ります。そうした問題をわきに避けておきたいのですが、そうもできなくなっているように感じます。
ウクライナからの小麦の輸出が再開されると聞いて、少しは食糧事情も改善するのかと安堵したのも束の間、また、ロシアが約束を反故するかのような攻撃を行ったといいます。ため息しかでません。
米国では、40年ぶりのインフレを退治するため、一段と高い金融引き締めが予想されています。物価上昇圧力を緩和するためには、リセッション(景気後退)入りと失業の大幅増は避けられないとの見方が大勢を占めているそうです。
日銀とは真逆の政策のようです。視点が異なるということでしょうか。こうした状況下で日銀が期待する賃上げが進むのでしょうか。
FRBが米経済に強いる「一段の痛み」-今週FOMCで大幅利上げへ - Bloomberg
ブルームバーグによると、すでに米国の成長は鈍化しつつあるといいます。住宅市場の軟化、テクノロジー企業の採用抑制、新規失業保険申請件数の増加などからそれは見て取れるそうです。今週26、27日にFRBのFOMCで、どのような政策決定がなされるのでしょうか。
一方、日本ではあの事件の後遺症が残っているようです。メディアには報道したがらない理由もあるようですが、SNS上では今なお様々な意見が飛び交っています。
あちらこちらで色々なことが同時多発的に起きています。これはしてはならないというタブーが薄れ、不文律が忘れ去れてしまったかのようです。先々がどうなっていくのかよくわかりません。
論語に学ぶ
「之を知る者は、之を好む者に如(し)からず。之を好む者は、之を楽しむ者に如からず」(「雍也第六」20)、この孔子の言葉を登山を例にして桑原武夫が解説しています。
山があること、さらに登る技術を知らなければ登山は成立しない。しかし、登山家といわれるのには、山が好きでなければ駄目である。好きだからあくまで登攀に成功しようという闘志もわいてくる。しかし、本当の山登りの達人は、谷をわたり岩壁を登ること自体に楽しみを見出している。だから他人にまたは組織に要求されて登るわけではない。気分ないし体調がよくないとみたら、登攀を打ち切ってこだわらない。そして、日を改めてまた登って楽しむのである。(引用:「論語」桑原武夫)
「知」は客体の認識、「好」は客体への傾斜つまり関心、そして、「楽」は客体の中に入ってあるいはそれと一体化して安住することをいいます。最初の二段階を経て、第三段階の安らぎの理想境に達すると孔子は教えているといいます。しかし、いきなり「楽」に到達することは許されないのであって、漸次的完成がなければならないといいます。
この章を学問や道とするのが一般的な説といいますが、桑原はそうとらずに軽い言葉であって、およそものごとは、という意味にとっておきたいといいます。そうであれば、何ごとも「知」「好」「楽」という過程をただるのでしょう。
「知」「好」がなければ社会は動かないといいます。いうまでもなく、不条理や道理から外れたことが好まれるはずもありません。それなのにそれをゴリ押しするから問題が起きるのでしょうか。
ただ解決の手立ては難しいのかもしれません。当の本人に気づきがあればいいのですが、そうでなければ問題はいつまでも続くことになりそうです。対立を煽る意見ではなく、問題解決を望む雰囲気が不可欠なのでしょう。その機運を高めていくしかないのでしょうか。不文律
「参考文書」
ウクライナのオデーサ港に攻撃、穀物輸出再開で合意の翌日 履行は不透明 - BBCニュース