遠い異国の地での戦火が鳴りやまない。ただ心を痛めるばかりである。
「吾 未だ剛者を見ず。或る人対え曰わく、申棖(しんとう)と。子曰わく、棖や慾あり。焉んぞ剛たるを得ん」と、論語「公冶長第五」11にある。
「まだ剛者を見たことがない」と孔子がいうと、誰かが「申棖がいます」と答えた。すると孔子は、「棖は欲が深い。どうして強い人間でありえようか」と答えたという。
いかに強健な身体をもち、また果烈な精神態度をもっていても、欲望に負けてしまうようでは、果烈でありえなくなる。孔子は人間の欲望の存在を否定などしてはいない。ただ、慾という言葉は、その欲望にふりまわされている、またはふりまわされやすい、という形容詞であろうと桑原武夫はいう。
それは剛とは両立しない、果烈の士も志を失いやすいのであると解説する。
一見、剛者のように見える人物も慾が強ければ誘惑に負けてしまう。それでは剛者とはいえない。ただ剛に憧れて、苛烈でありたいと願うばかりに惨たらしいことを躊躇もせずにやっていてはただの残忍になってしまう。剛とは、己の慾に左右されることがあってはならない。慾無き「剛」は「仁」に近づくはずである。
米ワシントンで始まったG20財務相会合で、米、英、カナダの代表団がロシア代表の発言時に退席したという。ロイターによると、英国のスナク財務相はツイッターで「ロシアを罰するために国際的な協調を強化するよう働きかけていく」と述べたという。
米英加、G20財務相会合を退席 ロシア代表発言時に | ロイター
一方、ロシアのシルアノフ財務相はG20は常に経済に焦点を合わせてきたと強調し、加盟国間の対話を政治的に利用しないよう呼び掛けたほか、欧米による制裁措置についても苦言を呈したという。
折角、顔を合わせて話し合いができるの場なのだから、いがみ合わずに、建設的な対話を期待したい。
論語に学ぶ
学んで時に之を習う、亦た説ばしからず乎(またよろこばしからずや)。
有朋遠方より来たる、亦た楽しからず乎。人知らずして慍らず(いからず)、亦た君子ならず乎。(「学而第一」1)
この『論語』開巻第1章は、「学問の喜びについて述べたもので、学問を共に志すものは孤独ではない。必ず友が遠くからもやってきて、同じ道にいそしむ喜びが味わえるのだ」との解説もある。
学びとはまねること、習うとは繰り返し行うこと。
一つの学説を知り、それにもとづいて他の本を読んでみたり、自然や社会の現象を解いてみたりする。そうしたことを繰り返していると、必ず友となる人もやってきて、同じ道を営む仲間となり、喜びを分かち合える。
ただ学究を続けていても、人に知られないことはことは往々にある。自分の能力が社会から認められないといっては腹を立てず、怒らない。そういう人こそが、品格のある立派な人物、君子と呼ぶのだろう。
孔子が生きた春秋戦国時代、常に周囲からの外圧を感じ、自分たちが生き残る術を自分たちで見出さなければならなかったのだろう。その智慧が「論語」として今日まで語り継がれてきた。
この第一章は「小論語」とも言われ、「論語」の全精神が現れているという。
楽しく学習を続ければ、友となる人が遠方からやって来る。なんとうれしいことではないか。たとえ人に知られることがなくとも怒らない。そしてまた学びを続けていく。
こんな精神を身につけることができれば、平和な世界を実現することができるのではなかろうか。