孔子曰わく、君子に九思(きゅうし)有り。視(し)には明を思い、聴(ちょう)には聡(そう)を思い、色(しき)には温を思い、貌(ぼう)には恭を思い、言には忠を思い、事(じ)には敬を思い、疑(ぎ)には問(もん)を思い、忿(ふん)には難を思い、得(とく)を見ては義を思う。(「季氏第十六」10)
(解説)
孔子の教え。「君子 教養人には心を尽くす九つのことがある。見るときは明瞭に、聴くときはうわべだけでなく、顔色はやわらかに、態度は謙遜して、言葉はまごころこめて、仕事には慎み深く、疑問には問うて残すことがなく、腹立ちには他に難儀が及ぼないように、利得があるときは正、不正を見きわめ、というようにだ」。(論語 加地伸行)
現代語訳にするより、「論語」にある文のまま読んだ方がわかりやすいような気がする。
「困」は、「困る」ことではなく、「学ぶ時の努力」という。
「之」を「道徳」すると、少し重い気がする。「学び」の大切さを説いているのであろうし、自分の歩む道に活かされれば、それは智慧となるのだろう。
子曰わく、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦(また)以て畔(そむ)かざる可きか。(「雍也第六」27)
「子罕第九」11では、 顔回が、同じ言葉を用いて孔子の教導について述べている。
「之」、「文」ということなのだろうか、それともこの「論語」ということなのであろうか。
「得を見ては義を思う」との言葉を聞くと、渋沢栄一が説いた「道徳経済合一説」を思い出す。
栄一は、企業の目的が利潤の追求にあることは間違いではないといいつつ、「その根底には道徳が必要であり、国、人類全体の繁栄に対して責任を持つことを忘れてはならない」と説いたという。
その「得(利益)」は常に人の為に役立った結果なのか。そう問うているのだろう。
栄一は「義」をみんなのために考えることだという。「義」、正しき道とはそういうことなのかもしれない。
(参考文献)