孔子曰わく、善を見ては、及ばざるが如くし、不善を見れば、湯(とう)を探る如くす、とあり。吾 其の人を見、吾 其の語を聞けり。隠居して以て其の志を求め、義を行なって以て其の道を達す、と。吾 其の語を聞けども、未だ其の人を見ず。(「季氏第十六」11)
(解説)
孔子の教え。「善業を見ると、とても自分は及ばない、という気持ちとなり、悪業を見ると、熱湯に手を入れるようなものと思う。そういう人物を見てきたし、そういう古語を学んだ。乱世のときには隠れ住んで自分の志を深め、道義に従って人の道を世に広める。そういう古語を私は好きだが、それを実行に移した人物と出会ったことはない」。(論語 加地伸行)
「子罕第九」13で、子貢が「斯(ここ)に美玉有らば、匱(とく)に韜(つつ)みて諸(これ)を蔵(おさ)めんか、善賈(ぜんこ)を求めて諸を沽(う)らんか」と問うと、孔子は、「之を沽らんか、之を沽らんか。我は賈(こ)を待つ者なり」と答えたことを思い出す。
「隠居して以て其の志を求め、義を行なって以て其の道を達す、と。吾 其の語を聞けども、未だ其の人を見ず」とは孔子自身のことなのだろうか。
(参考文献)