孔子、郷党(きょうとう)に於いては、恂恂如(じゅんじゅんじょ)たり。言(ものい)うこと能(あた)わざる者に似たり。其の宗廟、朝廷に在(あ)りては、便便として言う。唯 謹(つつし)むのみ。朝(ちょう)にして下大夫(かたいふ)と言えば、侃侃如(かんかんじょ)たり。上大夫(じょうたいふ)と言えば、誾誾如(ぎんぎんじょ)たり。君在(いま)せば、踧踖如(しゅくせきじょ)たり、与与如(よよじょ)たり。 (「郷党第十」1)
(解説)
「孔子は郷里におられるときは、控えめ控えめのご様子であった。あたかも話すことができないかのようでさえあった。しかし、孔子が宗廟や政庁におられたときは、弁舌は明晰であった。もっとも謹み深い態度であった。政庁において、孔子より下位の大夫と話されるときの口調は、和らぎ楽しく、上位の大夫とのそれは、ごく普通であった。国君が政庁に出御されると、うやうやしくされ、また威儀は当を得たものであり、ゆったりしていた。」(論語 加地伸行)
桑原の解説
「郷党第十」は「論語」のうちで特殊な篇であるという。ここには孔子の外面的生活がこまかに記録されている。他の篇のように孔子ないしその門人たちの言葉が、ほとんど含まれず、もっぱら孔子の公的ないし私的な生活の様式がくわしく示されている。もとは全篇がひとつの章であったが、それを後の人が章に分けたという。
人類の歴史が初まって以来、一個の人間の生活様式をこのようにこまかく記録したものが他にあるだろうか。それは孔子に対する個人崇拝的感情と祭政一致的な古代社会があったればこそ生まれたにしても、驚嘆すべき世界に稀な文献というべきであると桑原はいう。
「党」は五百軒の部落、「郷」は二十五の党が集まったものとされる。しかし、ここではそうした行政地区というよりむしろ孔子が住んでいた地域というほどの意味にとってよかろう。「恂恂如」というのは「温恭の貌(かたち)」とされる。「便便」とは弁舌のさやかなこと。
孔子は高い地位についたときでも、近所の寄合いなどに出るときは、おだやかで威張ったふうがなく、うまくものがいえないかのようであった。ところが君主の先祖を祭った廟や君主の政務を行う場所に出ると、弁舌さわやかにてきぱきと発言したが、しかも謹厳な態度だけは失わなかった。
このように特記したのは、普通の高級役人はこれと反対だからである。近所の人たちの前では役人風を吹かせて威張っているくせに、偉い人のたくさんいる場所へ出ると、急にペコペコとうやうやしい態度をとる。孔子はこれに反して、どこまでも穏やかな、しかし、責任を痛感している人間的な役人であった、というのである、と桑原は解説する。
(参考文献)