北海道帯広で20代の公務員が7月末、許可なく農作業の副業をしたとして戒告処分を受けたという。公務員の副業は、原則認められていない。理由としては、公務に対する集中心が欠け、その職務専念義務に抵触するおそれがあるなどがあげられるようだ。
北海道では、地域産業を守ろうと職員の副業を認めている自治体もあるそうだ。また、人手不足という慢性的な問題も、農業を守る社会貢献の意義もあるという。
十勝毎日新聞によれば、帯広市は兼業・副業について、「一概に認めないわけでないが、内部協議が必要」という姿勢で、一方、処分を受けた消防士が所属するとかち広域消防事務組合(帯広)は「公務員は全体の奉仕者なので、個人的に収入を得るための副業は申請があっても認められない」という考え方のようだ。
「従業員が副業を求めるのは、収入が足りない、やりがいがないなど現在の仕事では十分ではない何かがあるというシグナルかもしれない」と話す、副業研究の著書がある東洋大学の川上淳之准教授の言葉を十勝毎日新聞は紹介する。
論語の教え
「大徳は閑(のり)を踰(こ)えず。小徳は出入(しゅつにゅう)すとも可なり」と、論語「子張第十九」11 に孔子の弟子 子夏の言葉がある。
一般的には、「大徳が軌道を外れなければ、小徳は多少の出入りがあっても、さしてとがむべきではない」と読む。
「大徳」とは大きな徳目、「小徳」を小さな徳目として、大もとを踏み外さなければ、小さなところでの間違いは許容できるということであろう。
それを加地は人に例え、 「大徳 人格者は、規範を越えることはしない。小徳 人格者にまだ達することのない未熟な者は、多少出入りしてもさしつかえない」と解す。
この章で説く道理からすれば、公務員として守るべき規範、大徳を守り、例えば個人として地域社会に貢献したいという小徳、それでなおかつそこから収入を得たいという個人の欲求を満たしても、よいのではないかとも解釈できそうだ。
ただ現実の社会には法律があり、それを逸脱することは許されない。しかし、法も規則もルールももとは人が作ったものである。かつて弁護士の中坊公平氏は、「法律は最低限のモラルにすぎない」といった。
モラル、規範に普遍性はあるものの、その解釈はときどきの時代によって変化する。法解釈もそうあるべきではなかろうか。
あまりにも陳腐した法律は必要に応じ改正が求められているのだろう。それを実行できるのは人である。
通り一辺倒に解釈し、適用するだけではなく、疑問的意識をもち、必要に応じ、声をあげることも必要なことなのだろう。そうでなければ、いつまでも息苦しく生活し難い社会になってしまう。
社会が不変であるなら、規則、ルールも変える必要はないが、社会が変化している以上、常に規則、ルールを改定していく必要性があるのではなかろうか。 規則、ルールがあって社会があるのではなく、規則やルールによって、より良く維持されているだけではなかろうか。
しかし、世の中、常に善人ばかりとは限らない。荀子が説く性悪説と、それに続く法治国家の意味も理解できる。
時代に合わせ、規則やルールを見直すことができる人が求められているのだろう。